加藤清正とともに、秀吉の側近武将の中の出世頭として知られる福島正則には、酒に関わるエピソードが多くあります。さて、彼の酒はどのようなものだったのでしょう。 |
福島正則と酒 尾張の桶屋のせがれが、後には安芸広島の大大名…。正則の経歴は一般に桶屋のせがれとなっているが、一族をたどれば、北条氏康の股肱の臣・北条綱成につながるといわれている。 彼は武闘派の武将には違いないが、けっして粗暴で力まかせだけの武将ではない。広島の大名になってからは家中の統制もとれ、非常に合理的な政治システムを作ったといわれている。 ところが、酒が入るととんでもない失敗を繰り返すのである。彼は酒豪としても知られているが、こんなエピソードがある。 ある日のこと、彼は朝から酒をくらって上機嫌であった。ところがある家臣の諫言が気に障り、ふとしたことから口論となり、退がらせた上で別の家臣に「あやつの腹を切らせよ、そして首を持って来い」と酒の勢いで命じてしまった。 事情を知った当の家臣は即切腹してしまった。さて、しばらくして酒の酔いも醒めた正則は何喰わぬ顔で切腹した家臣の名を呼んだ。周りの面々は驚き、切腹して果てた旨を告げたが彼は信じない。 そこで首を正則の前に持ってくると、その首を見るやいなや号泣して詫び続けたという。 またある時酒を飲み、こっそり妾のもとへ忍び込んだことが正妻にバレたのだが、この時正妻はなぎなたを振り回して正則を問いつめた。正則はそれこそ真剣な顔で詫びつつ逃げ回ったという。何ともしまりのない話であるが、 彼の憎めない性格がよくわかる話だと思う。しかし、彼の妻も妻…。 さらに彼には、堀尾忠氏の家臣で松田左近という仲のいい酒飲み友達がいた。堀尾忠氏が伏見城の秀吉にご機嫌伺いに出向いてきたときのこと、正則は忠氏の下城を大手門のところで待ち受けていた。もちろん松田左近に会うためである。 ところが左近は同行しておらず、忠氏に事情を聞くと、左近は病にかかって大坂で静養中とのことだった。それを聞くや正則は供も連れずに単騎大坂へと馬をとばした。左近は驚きながらもたいそう喜び、病も少々の怪我だけだったことから 家来に酒をたっぷり求めてくるよう命じた。それを聞いた正則は、「そんなにたくさん飲んでは体に悪い。ともに一椀ずつの酒ならこころよく馳走になろう」といい、二人で一椀ずつの酒をさも旨そうに飲み、語りあったという。 もう一つ有名な話。徳川の天下も固まり、世にようやく戦が絶えた頃、安芸広島から江戸の将軍家へ献上する酒を積んだ船が悪天候で八丈島付近まで南下してしまった。 船に乗っていた武士たちが島を見ると、よぼよぼの老人が船に向かって手を振っている。何かと思い島に船を付けると老人が寄ってきて、 「私は宇喜多秀家です。この島に流され何年も故郷(秀家の旧領は備後)の音信を聞きませんでしたが、ふと海を見ていると、船に『備後三原の酒献上』の旗があるではありませんか。思わず手を振ってしまいました。久しく三原の酒は飲んでいないので…」 顔中涙でくしゃくしゃにしてうずくまる老人を見て、福島家の武士たちも哀れに思い、「これは主人が将軍家へ献上する酒ですが、宇喜多殿のお言葉を聞いては差し上げずにはおれません。いささかなりともお分けいたしましょう」といったところ、 秀家は幾度も礼を言い、受け取りの証拠に一首したためて正則にことづけてもらうよう頼んだ。 後にこれを聞いた正則は涙ぐみながら、「ようしてくれた。その方たちが秀家殿へ酒を差し上げたこと、わしからも礼を言うぞ」と言い、深々と頭を下げたという。 どうやら彼は酒に呑まれる人だったらしい。しかし彼の家臣への愛情、優しい心根、子供っぽさの残る性格は家臣からも慕われていた。だから戦場でも、かの本多忠勝さえ一目置いたといわれるほど強かったのである。 正則はこの後、広島城を無届けで修復した罪により改易される。信州高井野村の配所で彼はどのような酒を飲んだのだろう。残念ながらその後の酒に関する記録は、ない。 by M.Sakamoto
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