内藤如安(ないとう じょあん) ? 〜1626 諱は忠俊、のち徳庵を号す。飛騨守。内藤源左衛門の子とも松永長頼(内藤宗勝)の子ともいうが、いずれにせよ長頼ののち丹波八木城主となったキリシタンで、受洗名ドン・ジュアン。のち秀吉に仕え、文禄の役には小西行長の与力として渡海、この頃は小西如安とも称した。関ヶ原合戦後は加藤清正のもとを経てキリスト教の理解者であった前田利長に仕えたが、家康の禁教令にも棄教せず慶長十九(1614)年に高山右近や妹ジュリアらとともにマニラへ追放された。寛永三(1626)年に同地で病没。 |