戦国を生きた男たち
《 武将編 え: 頴娃久虎〜遠藤基信

喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。

→[人物抜粋録/特集]、→[言行逸話録]、→[戦国武将と酒] に関連ページあり。


頴娃久虎(えい ひさとら)   1558〜1587

島津義久・義弘の家臣。薩摩頴娃の国人兼賢(堅)の子で同氏第七代。のち指宿地頭。初名小四郎、左馬介・全福と称す。天文八年に島津貴久の傘下となり、以後天正四年の高原攻めをはじめ、耳川合戦・水俣攻め・肥後千々輪城攻め・島原合戦・日向合戦など多くの合戦に活躍した。天正十二年には義久の談合衆を務め、義弘をして「豊肥戦はすべて久虎によった」と言わしめた勇将。

江戸重通(えど しげみち)   1555〜1598

常陸の土豪で水戸城主通政の子で通称は彦五郎、但馬守を称す。代々佐竹氏と抗争に及んでは和睦を繰り返してきたが、重通の時に豊臣秀吉政権下で常陸公認領主となった佐竹義宣からの水戸城明け渡しを拒否。このため義重・義宣父子に攻め落とされて下総の結城晴朝のもとに奔り、そのまま同地で歿した。

江馬輝盛(えま てるもり)     ? 〜1582

飛騨吉城郡の土豪で高原諏訪城(旭日城・江馬城)主。時盛の子で常陸介を称す。家存続の方向をめぐって父と不和となり、これを暗殺して上杉謙信の傘下に入る。天正十年、三木自綱と荒城郷で戦い負傷、牛丸又太郎に討たれたという。

江村親家(えむら ちかいえ)  生没年不詳

土佐長宗我部氏の家臣。吉田備後守重俊の二男で、江村備後守親政の養子となって娘を娶り備後守を継称した。このため以後重俊を大備後、親家を小備後と呼ぶ。国親・元親二代に仕え、天文十八年の山田基通との戦いをはじめ数々の合戦で活躍した。日時は不詳だが天正年間に病歿。

江村親俊(えむら ちかとし)  生没年不詳

土佐長宗我部氏の家臣。小備後親家の子で、通称は孫左衛門。元親に仕え、天正十年の阿波侵攻の際には一宮城を守った。同十三年元親が秀吉に降伏した際には、比江山親興とともに人質となった津野親忠に従い伏見の秀吉のもとへ赴いた。朝鮮の役では晋州城攻撃に参加し武勲をたてた。慶長初めに病歿と伝える。

遠藤胤俊(えんどう たねしげ) 1546〜1570

美濃郡上郡の土豪で木越(きごえ)城主。はじめ斎藤氏に属すが後に織田信長に臣従。近江堅田の合戦で坂井政尚の指揮下で浅井・朝倉連合軍と戦うが奮戦むなしく討死。

遠藤直経(えんどう なおつね)   ? 〜1570 

近江浅井氏の家臣で大依山砦の守将。通称は喜右衛門。浅井家の猛将として知られ、永禄十一年には主君長政と織田信長が初対面の際、接待役を務める。近江姉川の合戦で奮戦するが自軍が大敗、策を弄して信長に近づき襲いかかろうとしたが、側に控えていた竹中久作に見破られて討たれた。

遠藤宗信(えんどう むねのぶ) 1572〜1593

基信の子。伊達政宗の宿老。十七歳で家督を嗣ぎ、政宗に重用される。佐竹・蘆名・岩城氏らとの戦いに活躍、また文禄の役にも大功を挙げる。故あって一時出奔するが、程なく鈴木氏ら重臣に諭されて帰参したという。

遠藤基信(えんどう もとのぶ) 1532〜1585

伊達輝宗の重臣。米沢の修験者の子と言われ、宿老中野宗時に寄食。以後次第に才覚を発揮、輝宗の近侍となる。中野宗時出奔時にはその家臣達を説得して帰参させた。輝宗歿時に殉死しようとしたが果たせず、忌日に墓前で自決した。



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