戦国を生きた男たち
《 武将編 ひ: 樋口兼豊〜平野長泰

喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。

→[人物抜粋録/特集]、→[言行逸話録]、→[戦国武将と酒] に関連ページあり。


樋口兼豊(ひぐち かねとよ)   ? 〜1602

もとは越後坂戸城主長尾政景の臣で政景の没後上杉謙信に仕える。通称は惣右衛門、のち伊予守を称す。直江兼続の実父で御館の乱の際には景勝側につき軍功を挙げ、越後東頸城郡直峰城主となった。

樋口直房(ひぐち なおふさ)   ? 〜1574

もとは浅井長政の臣で近江坂田郡鎌刃城主・堀秀村の家老だったが、織田信長の浅井攻めの際に信長に臣従、横山城代・羽柴秀吉の与力となる。しかし1574年、突然守っていた木芽峠の砦を抜け出して甲賀へ逐電したが、秀吉の手に捕らえられ妻とともに処刑されたという。

土方雄久(ひじかた おひさ)  1553〜1608

「かつひさ」とも読む。元は織田信雄の家臣。秀吉没後に大野治長らと家康暗殺を画策するが失敗、佐竹義重預かりとなる。こののちは家康に随身、下総田子一万五千石の主に。

菱刈隆秋(ひしかり たかあき) 生没年不詳

大隅菱刈院を本領に、太良城を本拠とする国人。大膳亮、弾正を称す。はじめ当主の兄重猛とともに島津方に、のち蒲生方に属すが、兄の没後は島津氏に従い、その軍功により所領を与えられる。しかし永禄十年肥後相良氏に通じ離反、馬越・市山・大口で戦うが敗れた。

比志島国貞(ひしじま くにさだ)  ? 〜1600

薩摩の国人比志島氏庶流国真の子で通称彦四郎、宮内少輔のち紀伊守を称す。島津氏家臣で義久・義弘・家久三代の家老を務める。薩摩市来・日向高岡地頭。天正六年大友宗麟との日向高城攻め(耳川合戦)や同八年の肥後合志攻めなどに出陣した。

比志島義基(ひしじま よしもと)  ? 〜1600

薩摩の国人比志島氏本宗家義弘の子で式部少輔を称す。大隅栗野・日向曾井地頭。主に軍務に携わり、永禄十年菱刈隆秋の馬越城攻め、天正十三年の日向高知尾攻めなどに出陣、翌年の豊後侵攻では船大将を務めた。

平岩親吉(ひらいわ ちかよし) 1542〜1611

徳川家譜代の重臣。家康の人質時代からの家臣で頑固者として知られ、一時信康問題で身を慎むが程なく許され復帰。後に徳川義直の付家老を命ぜられ尾張犬山九万石余の城主に。

平尭知(ひら たかとも)      ? 〜1582?

能登守護畠山氏の重臣で通称新左衛門、加賀守を称す。姓は「へい」とも読み、名は高知とも書く。「畠山七人衆」総知の子と思われ、お家騒動以後の消息はよくわからないが、温井景隆と行動を共にしたと思われる。織田信長の能登支配時には一時属したが、後に越後へ逃れた。歿年も含め、その後の行動は不明。

平田歳宗(ひらた としむね)   ? 〜1598

薩摩島津家の家臣。光宗の子で通称新三郎、左近将監のち美濃守を称す。名は房宗とも。天正年中より義久・義弘の家老を務める。天正十一年、肥後阿蘇氏(堅志田城)攻めに出陣、翌年も肥後に在陣した。朝鮮の役にも出陣するが、慶長の役の際に病歿。

平田昌宗(ひらた まさむね)   ? 〜1579

薩摩島津家の家臣。島津氏の譜代家老を務めた平田氏一族兼宗の子で通称右馬介、美濃守を称す。大隅帖佐地頭で、名は景宗・昌景・職宗とも。永禄十三年より天正三年まで貴久・義久の家老を務めた。天正七年、帖佐にて歿す。

平田光宗(ひらた みつむね) 1529〜1605

薩摩島津家の家臣。平田氏庶流備中守宗秀の二男で昌宗の養子となる。通称新七、左馬助のち美濃守を称す。貴久・義久の家老。天正元年早崎営を守備、同六年日向石城攻め、同十一年肥後堅志田城攻め、同十二年肥前島原合戦など各方面で軍功をあげる。肥後八代守将・地頭、薩摩郡山・同西別府・大隅帖佐地頭。

平田宗茂(ひらた むねしげ) 生没年不詳

薩摩島津家の家臣。平田氏庶流式部少輔宗秀の子で通称新左衛門、安房守を称す。はじめ薩州島津家実久に属していたが、天文八年に薩摩苦辛城を献じて伊作島津家忠良に降伏臣従し、のち忠良の家老を務めた。薩摩川辺・同加世田地頭。

平塚為広(ひらつか ためひろ)   ? 〜1600

豊臣秀吉の家臣。通称は孫九郎、因幡守を称し、美濃垂井一万二千石を領す。関ヶ原の際には大谷吉隆(吉継)に属し、前田利長の南下を阻止。決戦では病に冒された吉隆に代わって指揮をとり奮戦したが、乱戦の中で山内一豊の家臣樫井庄兵衛に討たれたという。

平手宗政(ひらて むねまさ)  1525〜1574

平手政秀の長男で、名は宗政(長利・政利とも)。駿馬を所持していたことから信長に所望されるがこれを断ったため信長から恨まれたという。父政秀の切腹は諫死とされるが、この件も一因にはなったと思われる。天正二年八月、長島一向一揆掃討戦の際に討死。

平手汎秀(ひらて ひろひで)  1553〜1572

織田信長家臣。平手政秀の孫で、通称監物。武田信玄西上時に浜松城の徳川家康の下に援軍として派遣され、三方ヶ原において徳川勢の先鋒の一翼として武田軍と激突、討死した。

平手政秀(ひらて まさひで)  1492〜1553

信長の養育役として知られる織田家譜代家老。奇行が多く「うつけ」と呼ばれていた当時の信長の素行を改めさせるため諫死。以来信長は人が変わったように成長したという。

平野長泰(ひらの ながやす)  1559〜1628

豊臣秀吉の家臣。船橋右京進重治の子で平野万久入道の養子となる。初名は長勝、通称権平、のち遠江守を称す。尾張津島十五党の出自で秀吉の小姓として仕え、「賤ヶ岳七本槍」の一人として知られる。戦功を重ねて大和十市郡田原本城主となり、慶長三年には豊臣姓を賜る。後に徳川秀忠に仕えた。



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