戦国を生きた男たち
《 武将編 の: 野一色助義〜乃美宗勝

喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。

→[人物抜粋録/特集]、→[言行逸話録]、→[戦国武将と酒] に関連ページあり。


野一色助義(のいっしき すけよし) 1548〜1600

中村一氏の家臣(家老)で八千石を領す。近江野一色村出身で通称は頼母(助)、名は長頼とも。関ヶ原の際には中村一栄隊の指揮官を務めるが、決戦前日の杭瀬川の戦いにて石田三成家老島左近らの計略に掛かり、奮戦空しく笠木村付近で宇喜多家中の浅賀三左衛門(浅香左馬助)に討ち取られれた。

能勢頼次(のせ よりつぐ)   1562〜1626

摂津能勢丸山新城(地黄陣屋)城主で、摂津守を称す。はじめ織田信長の下で明智光秀に属し、地元の塩川長満と交戦する。後に秀吉→家康とうまく取り入り、関ヶ原では東軍に加担して本領を安堵された。

野田政朝(のだ まさとも)   生没年不詳

古河公方足利晴氏の家臣成朝の子で、下総栗橋城主。通称右馬助古河公方の力が衰えると一時上杉謙信に属すが、栗橋城が北条氏政の勢力下に置かれるとその傘下に属し、栗橋城の守備を命じられた。

延沢満延(のべさわ みつのぶ) 1544〜1591

通称能登守で出羽延沢城主の有力国人。元は出羽天童氏の被官で野辺沢とも書く。後に最上義光の家臣として活躍したが、秀吉のもとに義光と上洛中の京で病没。

乃美宗勝(のみ むねかつ)   1527〜1592

安芸毛利氏家臣。沼田小早川氏庶流賢勝の子で浦宗勝ともいう。小早川隆景麾下の船大将で忠海賀義城に拠り、毛利水軍の副将的存在であった。厳島合戦の際には、姻戚関係にはあるが向背の定かでなかった村上水軍の説得に奔走、味方に付けることに成功した。

野村直隆(のむら なおたか)  1527〜1592

近江浅井氏の家臣。通称藤左衛門、肥後守のち出家し肥後入道を称す。元亀二年には国友城に籠もり信長方宮部継潤の来襲を撃退。主家滅亡後は豊臣秀吉に仕え、鉄炮頭を務め国友城二万石の主となる。関ヶ原の際は西軍に属し、伏見城攻撃に軍監として従軍した。



武将編INDEXへ