戦国を生きた男たち
《 武将編 そ: 宗 義調〜園田実明

喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。

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宗 義調(そう よししげ)   1532〜1588

対馬の豪族晴康の子で、讃岐守を称した第十六代対馬島主。代々対馬守護として朝鮮との貿易により勢力を保つ。朝鮮の役の際は講和調停役として奔走したが、関ヶ原では西軍に加担したため減封。対馬領のみ安堵され、引き続き朝鮮との調整役を命じられた。

宗 義智(そう よしとし)   1568〜1615

義調の養嗣子で通称彦三郎、対馬守を称す。のち従四位下侍従に任ぜられ羽柴氏・豊臣姓を許された。豪族で朝鮮との貿易により勢力を保つ。朝鮮の役の際は秀吉傘下の外交担当役として奔走したが、その交渉中に病没。

相馬盛胤(そうま もりたね)  1529〜1601

陸奥相馬氏第十五代当主で、母は伊達稙宗の娘。伊達晴宗・輝宗との戦いを繰り返すが必死に防戦し、領国を侵略から守った名将。

相馬義胤(そうま よしたね)  1548〜1635

盛胤の子で陸奥相馬氏第十六代当主の小高城主、後に牛越城主。秀吉死去の際には遺物一文字の太刀を賜わったという。関ヶ原の際には最初兵を動かさず、勝敗が決して後上杉領を攻撃したが失敗し失領したが、伊達政宗の取りなしで本領を安堵された。

十河一存(そごう かずまさ)    ? 〜1561

名は「かずなが」とも。左衛門督・讃岐守・民部大夫を称す。三好長慶の末弟で、讃岐十河景滋の跡を嗣ぎ、同国十河(十川)城主となる。長慶の養嗣子義継の父。「鬼十河」と恐れられた猛将で、その独特の髪型は「十川額」と呼ばれたという。兄長慶・義賢を助けて各地を転戦活躍するが、永禄三年四月に若くして病没。一説に、瘡を病み有馬温泉への湯治途中に落馬したのが原因という。法名「劒翁活公(宗活)禅定門」。

十河存保(そごう まさやす)  1554〜1586

名は「ながやす」とも読む。三好義賢の子で十河一存の養子となる。一存の跡を継いで十河城主となるが、天正十二年六月、長宗我部元親に十河城を攻略され羽柴秀吉のもとへ逃げ込む。秀吉の九州攻めの際には無理を承知で出陣し、豊後戸次川の戦いで島津家久の計略に掛かり討ち死にした。

園田実明(そのだ さねあき)  生没年不詳

薩摩島津氏の家臣で通称清左衛門、筑後守を称す。名は実祐とも。薩摩小野領主。大永七年に貴久が実久勢に清水城を攻められた際、貴久に従って脱出した八人のうちの一人で、小野の自分の屋敷に貴久を匿い、その知謀で危機を脱し無事田布施まで送り届けたという。天文六年には再び小野で実久勢を破った。



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