戦国を生きた男たち
《 武将編 て: 寺崎盛永〜寺嶋盛徳

喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。

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寺崎盛永(てらさき もりなが)   ? 〜1581

通称民部左衛門尉、越中願海寺城を本拠とした国人。天文二十一年婦負郡井田城主飯田利忠を天神林で撃破。能登畠山氏内紛の際には能登二宮に攻め入った。はじめ上杉謙信、のち織田方につき、天正九年再び上杉方に走ったため佐々成政に攻められ自害。ただしその場所には諸説あり、能登とも近江佐和山とも伝えられるが詳細は不明。

寺沢広高(てらざわ ひろたか) 1563〜1633

広政の子で志摩守を称す。名は正成・広忠とも。豊臣秀吉の側近で主に物資の輸送や船舶航行の統制などに従事、長崎奉行も務めた。関ヶ原の際には東軍に属し、最終的には肥前唐津城主となった。今なお残る名勝「虹ノ松原」を造ったことでも知られる。

寺沢広政(てらざわ ひろまさ) 1525〜1596

はじめ織田信長、のち豊臣秀吉の家臣。通称藤右衛門、越前守を称す。名は広正・弘政とも書く。秀吉の近江長浜城主時代からの直参衆で、天正十年には播磨伊保荘を知行、山崎合戦の際には姫路城の留守居役を務め、毛利氏に備えた。

寺嶋盛徳(てらしま もりのり)   ? 〜1605

通称牛介、もと越中神保氏の家臣で越中一向一揆の将西尾隼人の子と伝えられる。上杉謙信の越中平定時に謙信に属したが、謙信没後は織田方佐々成政に従い末森城攻めに参加。成政が羽柴秀吉に降伏した後は前田利家に臣従、次代利長のもとで千五百石を給された。



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