戦国を生きた男たち
《 武将編 よ: 吉江景資〜米田求政

喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。

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吉江景資(よしえ かげすけ)  1527〜1582

宗信の子。上杉謙信の家臣で、通称織部助。越後春日山城・下野唐沢山城の守将(春日山城は留守居役)などを務めた。御館の乱では景勝側につき活躍、以後越中魚津城の守備に就くが、天正十年織田方柴田勝家に攻め落とされ自刃した。

吉江資堅(よしえ すけかた)  1537〜1582

上杉謙信の家臣で、通称喜四郎。名は信景とも。もと近江の人で上杉謙信に見いだされ吉江氏を嗣ぎ、謙信の晩年には側近となった。御館の乱では景勝側につき活躍、以後越中魚津城の守備に就くが、天正十年織田方柴田勝家に攻め落とされ自刃した。

吉江宗信(よしえ むねのぶ)  1505〜1582

越後西蒲原郡の国人で、同吉江城主。上杉謙信の家臣で通称木工助、のち常陸入道宗闇を号す。天正九年以降景勝から越中魚津城の守備を命じられるが、翌年織田方柴田勝家に攻め落とされ子の景資らとともに自刃した。

吉見正頼(よしみ まさより)  1513〜1588

石見吉賀郡の国人で、同津和野三本松城主。頼興の五男で津和野興源寺の僧となり周鷹と称したが、天文8年に兄隆頼の死去により還俗して家を嗣いだ。はじめ大内氏に属したが厳島合戦後は毛利元就に属し、九州各地の戦い、特に筑前立花城攻めには副将を務めるなど活躍した。

米津常春(よねきづ つねはる)   ? 〜1612

徳川家康の家臣。松平広忠・家康二代に仕えた譜代家臣で、安祥の戦いや丸根砦攻めに従軍した。三河一向一揆勃発時には家康側について一揆勢と闘った。


米田求政(よねだ もとまさ)  1526〜 ?

室町幕府の臣で、はじめ源三郎貞能を名乗る。義晴・義輝に仕えるが、永禄八年に義輝が暗殺された際に細川藤孝らとともに、弟の一乗院覚慶(後の義昭)救出に活躍と伝える。同十二年からは細川藤孝に仕え、元亀二年には青龍寺城の普請を務め、天正五年の信長による紀州攻め等で軍功をあげたという。




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