戦国を生きた男たち
《 武将編 ゆ: 結城晴朝〜由良成繁

喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた男たちの中には、個性的な人間が多く存在しました。これは戦国期に活躍した個性派大名や武将たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。

→[人物抜粋録/特集]、→[言行逸話録]、→[戦国武将と酒] に関連ページあり。


結城晴朝(ゆうき はるとも)  1534〜1614

下総結城氏第十七代当主。下野小山祇園城主小山高朝の子で、下総結城城主結城政勝の養子となり家督を嗣ぐ。はじめ古河公方足利義氏に加担し佐竹・小田氏と戦うが、永禄十二年以降は逆に佐竹氏らと結び、北条氏政の侵攻を防いだ。のち徳川家康の次男秀康を養子にもらい、家督を譲った。

結城秀康(ゆうき ひでやす)  1574〜1607

家康の次男で通称越前中納言。容貌が「ギギ」という魚に似ていたため幼時は「於義丸(おぎまる)」と呼ばれ、家康からは冷遇された。剛勇の将として知られ、後に秀吉の養子を経て結城晴朝の養子となり、越前・若狭で七十五万石を拝領した。

湯川直春(ゆかわ なおはる)    ? 〜1586

直光の子で中務少輔を称す。紀伊湯川氏十三代の当主で日高郡亀山城主。秀吉の紀州征伐の際、居城を焼いて熊野へ奔り、目良淡路守・山本主膳とともに南征軍に抵抗した。後に本領安堵を条件とした和睦に応じるが、翌年秀吉方の謀略により毒殺された。

湯川直光(ゆかわ なおみつ)    ? 〜1562

紀伊日高郡の地侍集団湯川衆の頭領で、湯川氏第十二代当主の亀山城主。河内守護畠山氏に属し、一時離反するが安見直政の後を継いで守護代となる。以後畠山高政の軍事中枢を担うが、永禄五年高政に従い河内飯盛城攻めに出陣、教興寺の戦いにて三好勢に敗れ戦死。

遊佐続光(ゆさ つぐみつ)     ? 〜1581

能登珠洲郡の土豪で守護畠山氏の重臣。「畠山七人衆」の一人で、美作守を称す。畠山義綱を追放し子の義隆を立てるが天正二年に毒殺。上杉謙信侵攻時には長一族を殺害し、孫景光を人質に出して謙信に通じたが、織田信長の能登支配時にこれを咎められ、菅屋長頼らの手に捕らえられ斬首された。

由良国繁(ゆら くにしげ)   1550〜1611

成繁の嫡子で上野新田金山城主。通称は六郎、信濃守を称す。天正十三年北条氏に金山城が接収されたため桐生城へ退いた。小田原攻めの際は籠城するが、秀吉側についた生母妙印尼や子の貞繁が戦功をあげたため助命され、常陸牛久五千四百石を与えられた。ただし、これは生母妙印尼宛に下されたものという。

由良成繁(ゆら なりしげ)   1506〜1578

上野の土豪横瀬泰繁の子で同新田金山城主。はじめ横瀬雅楽助、のち信濃守を称す。上杉謙信の関東出兵時に新田衆を率いてこれに応じ由良姓に改めたが、永禄九年以降は北条氏に属した。越相同盟交渉では北条方の将として活躍したという。



武将編INDEXへ