大和天文一揆
天文元年(1532)七月三十日

 一向一揆が大和高取城の越智氏を攻めるが筒井・十市氏の来援により敗れ、吉野へ退く。

 
 これは畿内一円で勃発した「天文一揆」と呼ばれる争乱の一端であるが、元をたどれば畠山氏(義宣)と細川氏(晴元)の争いに端を発したものである。当時、畠山義宣の家臣に河内国守護代を務めた木沢左京亮長政という人物がいたが、長政は享禄四年(1531)八月に畠山氏の敵・細川晴元に寝返った。翌年(この年)五月、義宣が三好遠江守勝宗や筒井順興に加勢を頼んで長政の居城・河内飯盛城(大阪府四條畷市)を包囲すると、長政は細川晴元に救援を依頼した。事態は急を要すると見た晴元は山科本願寺の光教(証如)に加勢を依頼すると、光教は石山へ下って近国の門徒(以下一揆で統一)を糾合、翌月三万の大軍で飯盛城へ迫った(この際一揆は堺の三好元長をも攻め自害させている)。戦いの結果、義宣方の河内・大和勢は敗れ、三好遠江守は戦死し義宣は自刃する。ところが一揆は収まらず、今度は大和に矛先を向けた。

 七月十日、奈良で蜂起した一揆は気勢を上げ興福寺に乱入、乱暴狼藉の限りを尽くした。一揆勢は続いて南下、この日越智家頼の拠る高取城(奈良県高取町)へと迫った。一揆勢は激しく攻め立てるが高取城は天険の要害で容易には落とせず、越智氏救援に駆けつけた筒井順興・十市遠治らに敗れた一揆勢は吉野へと退却した。元々越智氏は長年にわたって筒井氏と抗争を繰り広げていたが、大和国人たちは一国の危機に際しては利害を超えて団結し外敵に当たるという傾向が見られ、この際もそれが発揮され「呉越同舟」で一揆を撃退している。

 この一揆は河内・大和の他に和泉・摂津・近江などにも飛び火、細川晴元や木沢長政までもが一揆と戦うという混乱状態に陥った。ようやく一連の騒擾が収まったと思うと、今度は長政が信貴山城(同平群町)を築いて大和侵入を開始するなど、まだまだ畿内の混乱は続く。
 


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