花倉の乱
天文五年(1536)六月十日

 今川家の家督相続争いで弟の梅岳承芳が兄の玄広恵探を花倉城に攻めて勝ち、承芳は家督を継ぎ今川義元を名乗る。

 
 当時、駿河国主・今川氏輝は相模の北条氏綱と協力して甲斐の武田信虎と交戦中であった。ところがこの年の三月十七日、氏輝とすぐ下の弟・彦五郎が突然急逝する。おそらく何かの争いがあったのではないかと思われるが、詳細は不明である。氏輝がまだ二十四歳の時のことであった。

 氏輝には二人の弟がいた。上の弟は遍照光院の住持である玄広恵探(げんこうえたん)、下は善得寺の喝食(かっしき)・梅岳承芳(ばいがくしょうほう)で、二人とも僧籍にあった。本来なら兄の玄広恵探がすんなり家督を嗣ぐはずなのだが、恵探は側室・福島氏の子、承芳は正室・寿桂尼の子という複雑な背景があり、ここに家中が二派に割れて争うことになった。
 当然恵探は家督相続を主張するが、氏輝兄弟の父・氏親の正室・寿桂尼は承芳に家督を継がせるべく重臣たちに働きかけた。さらに承芳の補佐役を務めていた太原崇孚(雪斎)の説得により、重臣たちのほとんどが承芳側についたため恵探は孤立してしまう。しかし家督相続に執着する恵探は、母方の福島(くしま)氏の応援を得て花倉城(静岡県藤枝市)・方ノ上城(同焼津市)に籠城、承芳と争う意志を明確に表した。

 承芳は、まず岡部親綱に命じて方ノ上城を攻めさせた。猛攻に支えきれなくなった恵探勢は花倉城へと退却するが、親綱は続いて花倉城にも攻めかかった。結局恵探は城外へ脱出して瀬戸谷(せとのや)に逃げ込んだものの、追撃の手をゆるめない承芳勢の前に絶望、同地の普門寺に入って自刃した。これが六月十四日のことで、ここに「花倉の乱」は終結した。

 一連の争いの間に梅岳承芳は還俗して義元と名乗り、この日に駿河国主・今川氏九代当主としての第一声を発している。
 


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