吉田郡山城の戦い
天文九年(1540)九月五日

 尼子晴久が三万の大軍を率いて吉田郡山城に迫り、城下を焼き討ちする。

 
 尼子晴久は永正十一年(1514)二月、経久の嫡子・政久の子として誕生した。通称三郎四郎、諱は初め詮久、民部少輔のち修理大夫に任ぜられる。五歳の時に父政久が戦死したため、天文六年(1537)に祖父経久から家督を譲られている。勢力拡大を策す詮久(晴久と改名するのは天文十年)は同八年十月、一族重臣を月山富田城(島根県安来市)に集めて毛利氏討伐についての軍議を開いた。
 席上、大勢の意見は毛利討伐に傾くが、尼子家の重鎮である大叔父・下野守久幸(経久の弟)は「殿の力では元就の城を簡単に落とせるなどとは思いも寄らない。名将に攻めかかって結局は敗れ、後々の名折れとなる。今回は思い止まるべし」と、これに反対した。一説に、当時病床にあった経久も久幸を支持したと伝えられるが、この久幸の言葉がまだ二十六歳の詮久の疳に障った。詮久は久幸の意見には耳を貸さず、逆に「臆病野州」と蔑み、軍議は元就討伐に決した。そして詮久の発した言葉が、後に久幸の死命を制することとなる。

 ところがこの年の正月、予想外の出来事が起こった。九州方面で戦っていた大内義隆が少弐資元を滅ぼして一段落したことから、今度は兵を尼子氏に向けてきたのである。焦った詮久は新宮党の国久に命じ、吉田郡山城の威力偵察(部隊を伴って偵察に赴くこと)を行わせた。しかし元就の守備は堅く、宍戸氏らの激しい抵抗に遭って国久は帰国する。
 この状況に詮久は自ら三万の兵を率いて八月に出陣、吉田郡山城へと向かうと、対する元就は雑兵を含めて八千の兵で迎撃した。尼子勢は安芸に侵入、この日郡山城下を焼き討ちするとともに、翌日以降も町家を焼くなどして郡山城へと迫る。十二日には局地戦ながら激しい戦いが行われたが郡山城攻撃には至らず、包囲戦となり年を越した。そして正月十三日のこと、またもや詮久にとって予期せぬ事態が起こる。
 元就救援に出陣してきた大内義隆の将・陶隆房(のち晴賢)が、手薄になっていた詮久の本陣を急襲してきたのである。尼子勢は混乱し、あわや詮久討死かと見えた時、久幸が一隊を率いて敵陣へ突入していった。久幸は詮久の身代わりとも言える形で奮戦し、ついに壮絶な戦死を遂げるのだが、その最後の言葉が次のように伝えられている。

「皆の衆は普段手柄、手柄と口に出し、遠慮分別を弁えて意見する私を臆病野州と陰で申されているそうな。今こそ手柄を立てる時であるにもかかわらず、私が(この陣中で)何度か一合戦なされよと申し上げても、ぐずぐずして動かないではないか。皆の衆よ、ご覧あれ。臆病野州が一合戦仕る」

 命拾いした詮久は意気消沈して退陣、かくして毛利氏討伐は失敗に終わった。
 


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