毛利元就が安芸銀山城を落とし、武田氏は滅亡する。 安芸銀山(かなやま)城(広島市安佐南区)は安芸守護・武田氏の居城で、佐東銀山城ともいう。永正十四年(1517)十月二十二日、当時の当主・武田元繁は毛利・吉川氏との間に行われた有田中井手合戦において討死を遂げ、以後武田氏の勢力は衰退していった。ちなみにこの戦いは毛利元就の初陣である。 元繁の跡を嗣いだ光和は大内義興に対抗すべく、出雲の尼子経久を頼り勢力挽回を図る。銀山城は大永四年(1524)七月にも大内勢に包囲されたが、その時には尼子氏から送られた援軍の働きで危機を脱している。この援軍の中心が当時尼子氏の麾下にいた毛利元就で、戦国期の銀山城は良くも悪くも元就に振り回される運命にあったようだ。 武田氏の衰退に決定的な打撃を与えたのが天文二年(1533)の可部横川合戦である。光和はこの戦いで熊谷信直に敗れ、多くの国人衆に見放されてしまう。結局光和は勢力挽回が果たせないまま同九年六月に病没、遺臣たちは尼子経久を頼り、その仲立ちで若狭武田氏から信実を迎えて後嗣とした。光和には信重という弟がいたため信実との間に争いが起こるが、信実はこれを制している。 その後元就は大内氏に属し、この日銀山城を落とした。信実は尼子氏から城督として派遣されていた牛尾幸清とともに出雲へ走り、ここに安芸武田氏は滅ぶ。家督相続争いに敗れた信重は落城とともに自刃するが、彼には当時まだ小さな男の子がいた。父を亡くしたその子は広島の安国寺不動院に身を寄せて竺雲恵心の弟子となり出家、やがて京都に上って東福寺に入り修行を積んだ。 師の恵心は毛利家の信頼が厚く、外交僧としても活動していたことから、その子も恵心の後を引き継ぐ形で毛利家の外交僧となった。元就に父を殺されたも同然のその子の胸中には、どんな思いがあったのだろうか。彼は後に僧籍にありながら伊予で六万石の大名となり、最期は刑死という形で波瀾万丈の生涯を閉じることになる。 彼の名を安国寺恵瓊という。 |