宮川の戦い
天文十一年(1542)九月二十五日

 武田晴信が高遠頼継らと諏訪安国寺前宮川橋に戦い、これを破る。

 
 この年の六月、武田晴信(信玄)は信濃諏訪郡侵攻に向け躑躅ヶ崎館を出陣、諏訪頼重の本拠・上原城(長野県茅野市)に迫った。頼重は抗戦するが一族の高遠頼継が武田方に通じて諏訪に乱入してきたため、頼重は上原城に火を放ち支城の桑原城へと逃れたものの七月五日に晴信に降伏、身柄を甲斐に移された。本来は助命される約束であったが、結局頼重は二十一日に甲府で自刃させられ、ここに名族諏訪氏は滅亡した。

 これにより高遠頼継は諏訪領の西半分を与えられたが、内通の際には諏訪郡全域を支配させるという条件だったため、当然のことながら武田氏に対して不満が募った。そこで頼継は九月十日、矢嶋満清・有賀遠江守・藤沢頼親らと連合して武田方の上原城を攻略、諏訪両社を占拠するという挙に出る。対する晴信は翌日に先陣として板垣信方を向かわせると、頼重の遺児・寅王を擁して十九日に諏訪郡へ出陣、堺川に着陣した。晴信が寅王を擁したことにより、寅王を諏訪氏の正嫡として認める諏訪旧族は晴信の下に参集し、頼重の叔父満隆らは高島城に籠もって高遠勢に対抗した。

 この日、両軍(約四千という)は安国寺前の宮川橋周辺で激突、四時間程の激闘の末に武田方が大勝、弟の蓮芳はじめ七百余の兵を失った頼継は杖突峠を越えて敗走した。武田勢は駒井高白斎政武がこれを追って上伊那郡へ侵入、藤沢口に放火して藤沢頼親の居城・福与城(同箕輪町)を包囲すると、二十八日に頼親は降伏した。
 こうして諏訪郡全域を支配した晴信は上原城に板垣信方を城代として置き、城を修築させて諏訪郡の支配を強化していくことになる。
 


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