大隅種子島西村浦に漂着した中国船より鉄砲が我国に初めて伝わる。種子島恵時・時堯は2挺の鉄砲を入手する。 天文十二年のこの日、大隅種子島の南端・西之村の小浦という所に悪天候により一艘の中国船が漂着、百余人の乗船者の中に鉄砲を所持した2人のポルトガル商人がいた。この武器の威力を認めた島主の種子島時堯は、乗組員の中にいた五峰という中国人を通訳として筆談で話を進め、大金をはたいて2挺の鉄砲を購入した。これが我が国における鉄砲伝来とされる瞬間だが、伝来の時期には異説もあり「通説」の域を出ているものではないようである。 時堯は直ちに領内の刀鍛冶・八板金兵衛清定と篠川小四郎に命じて製法や火薬調合法を学ばせ、ついに二年後に国産初の鉄砲を製造することに成功する。そしてこの情報をいち早く聞きつけた紀州根来の津田監物算長(かずなが)と和泉堺の商人橘屋又三郎は、直ちに現地に赴いた。監物は二挺のうちの一挺を入手し、また又三郎は自身が八板金兵衛のもとに弟子入りしてその製法技術を持ち帰ったと伝えられている。こうして鉄砲は比較的早い時期に根来・堺へと伝播した。 監物は根来に鉄砲を持ち帰ると、直ちに根来西坂本の芝辻鍛刀場・芝辻清右衛門妙西に複製を命じた。やがて紀州産初の鉄砲が誕生すると、監物は弟で根来寺杉ノ坊の院主・明算(みょうさん)に命じて鉄砲による武装化を進めるが、これが鉄砲傭兵集団・根来衆の始まりとなった。一方、堺でも橘屋又三郎が鉄砲の製造に着手、後に根来の芝辻清右衛門が堺に移住したこともあって堺は一大鉄砲生産地として知られるようになり、又三郎はやがて「鉄砲又」と呼ばれる大商人となる。 鉄砲が実戦で初めて使用されたのは、同十八年五月から島津貴久の家老伊集院忠朗が加治木城(鹿児島県加治木町)の肝付兼演を攻めた際(黒川崎の戦い)とみられ、記録に「而日日飛羽箭、發鐵炮、經數月驚人之耳目」(『貴久公御譜』)と見える。翌年七月には京都洛中の戦いにおいて、三好長慶の兵が細川晴元軍の放った鉄砲により戦死したことが『言継卿記』に書かれており、この頃には九州と畿内では既に鉄砲が実戦に用いられ始めていたようである。 天正三(1575)年五月の長篠合戦で大量の鉄砲隊を編成して武田勝頼を撃破した織田信長も、斎藤道三との「正徳寺の会見」(天文二十二年四月)において早くも鉄砲隊を引き連れており、翌年の対今川氏・尾張村木砦(城)攻略戦では鉄砲隊を動員していることからも、天文末期頃には全国の大名たちがこの新兵器に注目していたものと思われる。 |