加納口の戦い
天文十六年(1547)九月二十二日

 美濃加納口において斎藤道三と織田信秀が激突、信秀方に一族の信康・達広はじめ五千もの死者が出る。

 
 当時、美濃国には守護として土岐頼芸が存在していたが、次第に斎藤道三(秀龍)が台頭するようになり、美濃守護土岐氏の権威はほとんど名目に過ぎないものとなっていた。美濃を我が手につかもうとする道三が天文十年(1541)に頼芸の弟・頼満を毒殺すると、土岐一族や譜代の重臣たちは結束して道三追放に向け兵を集め出す。この動きを察知した道三は、先手を打って翌年八月二十二日に頼芸の居城・大桑(おおが)城(岐阜県山県市)を急襲、頼芸を国外追放した。

 頼芸は尾張熱田へと逃れ、織田信秀を頼った。信秀は幕府に働きかけ、名目上は頼芸を再び美濃守護とすることに成功するが、道三は信秀の要請を無視して相変わらず権力を握り続けていた。そこで信秀は頼芸派の家臣たちと示し合わせ、この年の九月初旬に道三討伐の兵を挙げ美濃に攻め入った。総勢は約一万と伝えられている。
 この日、道三の居城・稲葉山城(岐阜市)下に迫った信秀は、付近の民家に放火して気勢を上げると、日没のため一旦兵を収めた。と、その時、攻撃の機会を窺っていた道三は、夜営地へ移動中の信秀勢に猛然と襲いかかった。撤収中に不意を襲われた織田勢は大混乱となり大敗、我先に逃げようと右往左往するところを面白いように討たれ、また捕らえられた。道三はあくまで追撃の手を緩めず、織田方は信秀の弟・信康や一族の因幡守達広をはじめ五千の兵を失ったと伝えられている。

 信秀は翌年に三河小豆坂で今川氏の将・太原雪斎に敗れると、嫡男の信長と道三の娘・帰蝶(濃姫)との縁談を成立させ、美濃斎藤氏と同盟を結ぶことになる。
 


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