スペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルが薩摩鹿児島へ上陸、キリスト教が我国に初めて伝わる。 フランシスコ・ザビエルは1506年(日本の永正三年)、スペインのバスク地方にあるナバラ王国のザビエル城に生まれた。1534年七月、1525年よりパリ大学の聖バルバラ学院で聖職者を目指して勉強していたザビエルは、パリ・モンマルトルの丘で友人のロヨラらとともに清貧と貞潔の誓いを交わし、1539年にイエズス会を結成、翌年にはローマ教皇から公式に認められた。 1541年四月、東方航路の要地・インドに派遣されることになったザビエルは、ポルトガルのリスボン港を出航した。翌年五月にインドのゴア到着して布教活動を開始するものの障害が多く、ザビエルは計画を変更してインド以外に布教に適した地を探した。 マラッカ(マレーシア)、アンボン、テルナテ、モロタイ(いずれもインドネシア)などを回って精力的に布教活動を続けるが、マラッカに戻って活動中だった1547年十二月、知人のポルトガル商人アルヴァレスから一人の日本人を紹介されたことから目を日本に向けることになる。 その人物の名をヤジロウ(Angero=アンジロウ、アンジェロとも)という。彼は薩摩の武士で人を殺して寺に匿われていたが、折良く薩摩に入港してきた知り合いのアルヴァレスの船に逃げ込み、そこでザビエルに会うことを勧められマラッカへ来ていたのである。ザビエルと会ったヤジロウは日本の様子などを伝え、翌年五月にゴアで日本人として初の洗礼を受けキリシタンとなり、洗礼名「パウロ・デ・サンタ・フェ」を授けられた。ヤジロウに好感を持ったザビエルは日本人が布教に適していると判断、彼を案内役として日本へ向かうことを決意する。 一行は天文十八年(1549)八月十五日に鹿児島へ上陸、大いに歓迎された。ヤジロウは通訳として働き、ついにザビエルは九月に薩摩国主・島津貴久から布教許可を得ることに成功する。その後ザビエルは平戸・山口・堺を経て京都に入り、天皇の謁見を望んだものの果たせず、同二十年四月に山口へ戻って布教活動を開始した。同年九月には豊後の大友宗麟から招かれて精力的に布教に努め、その結果宗麟は熱心なキリシタンとなったことは良く知られている。 中国布教も念頭に置いていたザビエルは同年十一月に豊後沖ノ浜を出港、上川島(中国広東省)へ向かう。しかし中国本土へ渡る商人の船が来ず、彼はそこで熱病にかかって倒れ、そのまま回復することなく44歳をもって天に召されることになる。 |