大友二階崩れ
天文十九年(1550)二月十日

 豊後大友家で御家騒動が発生、義鎮の弟塩市丸が惨殺され、義鑑は重傷を負い二日後に没す。

 
 当時、大友氏二十代当主・義鑑の嫡子義鎮(宗麟)は二十一歳になっていたが、義鑑は義鎮を廃嫡して弟の塩市丸に後を嗣がせようとしたことから家中が分裂、ついに事件は起きた。なぜ義鑑が義鎮の廃嫡を決意したかについては様々な説があるが、塩市丸は当時三歳の幼児であり、兄義鎮より人間が優れていたなどという理由でないことだけは確かである。つまり、原因としては次のようなことが考えられる。

 1.義鎮の性格が粗暴で、当主として相応しくないと判断した。
 2.周防大内氏の政治的影響を排除しようとした。
  (義鎮の母が大内氏の出とする説がある)
 3.同紋衆(親族)の入田親誠らが塩市丸を擁立して勢力を強めようとした。

 この日、重臣で義鎮の廃嫡に反対していた斎藤播磨守・小佐井大和守・津久見美作守・田口蔵人佐の四人が相次いで府内大友館(大分市)に出仕したところ、突然斎藤・小佐井が襲われ殺害された。この騒ぎを知って怒った津久見と田口は二階の間に押し入り、津久見は塩市丸を、田口は義鑑の室と二人の娘及び侍女をそれぞれ惨殺した。次いで両名は義鑑のいる桐の間に踏み込み、津久見が義鑑に斬りつけて重傷を負わせるが、義鑑の近習に二人とも討たれてしまった。

 義鎮は当時別府にいたが、急を聞いてすぐ府内に戻った。重傷を負った義鑑は二日後に没すことになるが、死の直前に義鎮の家督相続を認めた。この一連の騒動を「大友二階崩れ」と呼ぶ。
 なお、入田親誠は舅の阿蘇惟豊を頼って肥後へと逃れるが、逆に惟豊から非を咎められ殺されている。
 


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