大内義隆が陶隆房の謀反により、長門大津郡深川大寧寺にて自刃。享年45歳。これによりまた山口に滞在中の、公家で武田信玄夫人の父・三条公頼らも殺害される。公頼享年57歳。 大内義隆を討ってクーデターを成功させた陶晴賢(すえ・はるかた)は大永元年(1521)、大内氏の重臣・道麒入道(尾張守)興房の二男として誕生した。通称五郎のち隆房と名乗り、周防守護代のち一時筑前守護代も務めている。官職は中務大輔のち尾張守、最終官位は従五位上となり、大内氏の軍事部門筆頭として活躍した重臣であった。 天文十年(1541)十一月に尼子経久が没すと、大内義隆は翌年より出雲遠征を行い尼子氏の本拠・月山富田城(島根県安来市)を攻めるが、味方の離反があって大敗を喫し、同十二年五月に意気消沈して山口に帰陣した。その際に尼子氏の追撃により養嗣子晴持をも失った義隆は、寂しさを紛らわせるためか次第に文化に傾倒していった。 この頃から大内氏の内部で不協和音がはっきりと表面化し、軍事派の晴賢(当時は隆房)と文治派で義隆の寵愛を受けていた相良武任とが対立、このため晴賢は義隆から距離を置かれる事になる。そんな中、同十九年に晴賢は謀反の意を固めると毛利元就の抱き込みを企て、毛利氏も一旦は同調した。そしてこの年の八月、跡嗣ぎとして大友晴英(大内義長)を擁した晴賢は富田若山城(山口県周南市)を出陣、山口の義隆を襲った。 事前に晴賢の動きを察知していた義隆は法泉寺へと避難するが、晴賢の他に重臣の杉・内藤両氏も加わった五千余の兵は、山口に乱入すると直ちに法泉寺の門前へと迫った。義隆は三千の兵で警備をしてはいたが晴賢の攻撃を防ぎきれず、晦日の夜陰に乗じて脱出し長門へと向かった。この日の夜明けに何とか長門仙崎(同長門市)に到着すると、ここから乗船して海上へ脱出を計るが、沖合へ漕ぎ出たものの風浪が激しくなり失敗、再び戻って大寧寺へ入った。 しかし晴賢に大寧寺を囲まれると、もはや逃れる術はないと観念した義隆は、最後まで従った冷泉隆豊らの近臣たちとともに自刃、四十五歳の生涯に幕を下ろした。辞世の句として以下のものが伝えられている。 さかならぬきみのうき名を留めをき 世にうらめしき春のうら波 討人も討るゝ人も諸共に 如露亦如電応作如是観 |