織田信長が今川方の尾張村木城(砦)を激戦の末に落とす。 当時、駿河国主・今川義元は尾張緒川城(愛知県東浦町)の水野信元攻略を策し、また尾張侵攻の前進基地をも兼ね、同城に対する付城として村木城(砦)を築き、松平甚太郎家忠を守将として岡崎衆・駿河衆を入れていた。ちなみに徳川家康の生母・於大の方は享禄元年(1528)に水野忠政の娘としてこの緒川城で生まれている。 さて、緒川城の水野信元から援軍の要請を受けた織田信長はこれに応じるが、当時信長はまだ家中をまとめ切れておらず、実際の所はとても救援に向かう余裕などない状態であった。しかし今川方による村木砦構築によって刈谷城(同刈谷市)との連絡を絶たれており、放置すると家の存続に関わる危機が訪れることは明らかである。信長は単独で救援に向かって今川勢と戦うには無理があると判断、岳父の斎藤道三に援軍派遣を要請した。これを受けた道三が重臣・安藤守就に一千の兵を与えて尾張に差し向けると、信長は正月二十一日に那古野城(名古屋市中区)を出陣、叔父で小豆坂七本槍の一人として武名を高めた織田孫三郎信光とともに、翌日に折からの暴風雨の中を熱田から渡海して知多半島西岸に至り、緒川城へと向かった。 村木城は結構堅固な作りであったが、信長はこの日の早朝より城攻めを開始した。東の大手からは水野勢が、西の搦手からは信光勢が攻め込み、信長勢は当時新兵器であった鉄砲隊を率いて大堀のめぐらされた南から迫る。城兵も必死に抗戦し信長の小姓が多く戦死するなど激戦となったが、夕刻になってようやく城を落とすことに成功している。 |