新宮党粛清
天文二十三年(1554)十一月一日

 尼子晴久が一族の新宮党尼子国久・誠久らを殺害する。

 
 尼子氏はもともと出雲に土着していた国人ではなく近江京極氏の一族で、京極高秀の子高久が犬上郡甲良庄尼子郷(滋賀県甲良町)を領して以来、尼子氏を名乗るようになった。
 明徳三年(1392)、高久の子・刑部少輔持久は出雲守護代に任じられて月山富田城(島根県安来市)に入り、ここに出雲尼子氏が起こる。その後持久の孫・経久が紆余曲折を経ながらも勢力を拡大し、尼子氏は山陰の一大勢力となっていった。

 さて、経久の二男国久とその子誠久・豊久・敬久らは、月山富田城の北麓新宮谷に居館を構えたことから新宮党と呼ばれていた。尼子氏の勢力拡大は彼ら新宮党の活躍に負うところが多く、特に軍事面では尼子氏の中核をなしていたと言っても過言ではない。ちなみに経久の嫡男政久が永正十五年(1518)に戦死していたため、経久は天文六年(1537)に孫の晴久に家督を譲っており、晴久の叔父である国久は大きな発言力を持っていた。しかし天文二十三年の今日十一月一日、晴久は定例の評議のため登城した国久・誠久・敬久ら新宮党を襲い、ことごとく殺害してしまった。その際、誠久の五男孫四郎のみは乳母に抱かれて逃れ、のち京都東福寺の僧となる。

 尼子氏の軍事的柱石であった新宮党が、なぜこのような形で粛清されたのか。原因はいろいろ考えられるが、一説には毛利元就がいずれ対決する運命にある尼子氏の弱体化を図り、偽書を用いて新宮党に謀叛の企みありとの風説を流し、晴久を疑心暗鬼に陥れたと言われている。当時晴久と叔父国久の間には微妙な空気が流れており、元就はそれを上手く煽ったわけである。事実、新宮党には少々度を超えた言動もあったようで、加えて国政にも口出しをしてくる国久に対し、当主晴久が次第に面白いからぬ感情を抱くようになっていたのかもしれない。

 ともあれ新宮党はここに滅び、尼子氏の屋台骨は大きく傾いた。見事に計略を成功させた元就は翌年安芸厳島に陶晴賢を破って勢いに乗り、大内氏をも滅して後顧の憂いを絶つと、次なる侵略の矛先を石見へと向けた。尼子氏は晴久が永禄三年(1560)十二月に急死したため義久が跡を嗣ぐが、もはや往年の勢いはなくジリジリと毛利軍の侵略を許し、ついに同九年十一月に元就に降伏開城するという結末を迎えることになる。
 なお、尼子氏の重臣山中鹿介は主家再興を目指し、後に京都に隠棲していた勝久を当主として担ぎ出すことはよく知られているが、夢を果たすことなく播磨上月城で自刃した尼子勝久こそ、この事件の際にたった一人生き残った孫四郎その人である。
 


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