年表で見る「本能寺の変〜山崎の合戦」
(1582年6月2日〜6月13日)

【事件・合戦の概略】

戦国を大きく変えた、明智光秀による織田信長襲撃事件「本能寺の変」。明智光秀が信長を襲撃した動機はいろいろと言われている。それはともかく、信長側近の誰もがその兆候すら感じ取っておらず、それがためにこの「クーデター」は成功した。
本能寺にわずかの供回りを連れて滞在中の信長の、ほんの一瞬の隙を突いた形となり、光秀の計画は成就する。襲撃者が光秀と知った瞬間に信長の口から漏れたのは、「是非に及ばず」という言葉だったという。苦労して「天下布武」のスローガンのもと、諸国を切り従えてきた信長の、あまりにも無情であっけない人生の幕切れであった。

さて、続いて起こる秀吉のいわゆる光秀との「天王山」の戦い。備中高松城で毛利方の勇将・清水宗治と対峙していた秀吉は、信長死すの報を受け取るやいなや大急ぎで和睦に持ち込み、弔い合戦として後に言われる「中国大返し」を敢行して明智光秀に決戦を挑んだ。
光秀はまさかそんなに秀吉が早く返してくるとは思っておらず、一瞬の立ち後れが取り返しのつかない結果へと彼を導いていった。
光秀も奮戦したが、先に天王山という地の利を取られたことが戦局に響き、戦いに敗れて退却中に小栗栖村で土民の槍にかかり落命した。わずか10日あまりの「天下」であった。


※年表は本能寺の変前6ヶ月間、山崎合戦後3ヶ月間の全国の出来事を表示しています。
西暦日付種別内容
1581
天正9
11/21軍事海野幸光兄弟逆心の報を受けた真田昌幸が、弟信昌ら討手を岩櫃城の海野館に差し向ける。
  11/21文化斎藤伝鬼坊勝秀が鎌倉鶴岡八幡宮に百日間の参籠中、剣の奥義を悟り「天流(天道流)」と名付ける。
  12/02合戦肥後響ヶ原の合戦で相良義陽が甲斐宗運に敗れ討死する。享年38歳。
  12/06軍事佐竹義重が上野新田に出兵し、北条氏と対峙中の武田勝頼を援助する。
  12/12政治羽柴秀吉が安土城の信長を訪ね、前代未聞の豪勢な歳暮を献上する。
  12/14政治武田勝頼が韮崎の北に新府城を築き、この日移る。(日付は12/24とも)
1582
天正10
01/04死去南部晴政が病歿。享年66歳。
  01/10事件丹後田辺城の細川藤孝が一色義定に使者を送り、誘殺しようと企むが失敗する。
  01/11政治前田利家が小丸山に居城を築き、所口・府中を併せて七尾と称す。
  01/21政治羽柴秀吉が宇喜多秀家の老臣岡平内らと安土の織田信長に謁し、信長は秀家の家督相続を認める。
  01/28政治大友宗麟・有馬晴信・大村純忠が欧州に向けて4人の少年使節を派遣、長崎を発つ。
  02/03軍事織田信長が甲斐侵攻の進路を決定、駿河口は徳川家康、関東口は北条氏政、飛騨口は金森長近、伊那口は嫡男信忠と決める。
  02/12合戦織田信忠が岐阜城を出陣、伊那口へ攻め込む。
  02/14合戦高野衆が織田方筒井順慶の陣を襲う。
  02/16合戦徳川家康が遠江小山城を奪う。
  02/18軍事徳川家康が駿河・甲斐侵攻に向け遠江浜松城を出陣する。
  02/19政治武田勝頼夫人北条氏が韮崎の北に新府城を築き、この日移る。
  02/20軍事武田方駿河田中城の依田信蕃が徳川家康に城を明け渡す。
  03/01政治武田方の江尻城主穴山信君が徳川家康に誘われて降る。
  03/02合戦織田信忠が高遠城を落とす。城将仁科盛信は奮戦の後自刃。享年26歳。
  03/03合戦高野衆が紀伊菖蒲谷に布陣する織田陣を襲う。
  03/03軍事武田勝頼が新府城に火を放って郡内に向かう。
  03/05軍事織田信長が安土を出陣、甲斐へ向かう。
  03/15軍事羽柴秀吉が西進を開始、備中へ向け三万の軍を率いて姫路を発す。
  03/11合戦織田・徳川軍の侵攻に苦慮した武田勝頼が小山田信茂に裏切られ自刃。享年37歳。武田家滅亡。
  03/11死去武田信玄の次男で勝頼の兄龍芳こと海野二郎信親が入明寺で自刃。享年42歳。
  03/11軍事織田信長が美濃岩村城に入る。
  03/14軍事織田信長が信濃波(浪)合で武田勝頼の首実検を行う。
  03/15軍事羽柴秀吉が播磨・但馬・因幡の兵を率いて姫路城を発ち、備中へ向かう。
  03/17軍事羽柴秀吉が織田秀勝を奉じ備前児島に侵攻する。
  03/21政治北条氏政が織田信長に音物を贈り、戦勝を賀す。
  03/23政治織田信長が滝川一益に上野・信濃を与えて関東管領に任じ、一益は小諸から厩橋城に入る。
  03/26合戦長宗我部元親が伊予三間に侵入、西園寺氏がこれを迎え撃つ。
  03/29政治織田信長が徳川家康に駿河を与える。
  04/02軍事織田信長が上諏訪を発ち、甲府へ着陣する。
  04/03事件織田信長が信忠に命じ、六角義治を匿った甲斐恵林寺を焼き討ち、住持快川紹喜は炎の中で寂滅。
  04/04軍事羽柴秀吉が備前岡山に着陣、備中高松城主清水宗治を誘降するが宗治はこれを拒否する。
  04/13軍事上杉景勝が越中魚津城に上条政繁・斎藤朝信らを送り、激励して堅守を命じる。
  04/14軍事羽柴秀吉が宇喜多秀家の兵とともに備中竜王山に布陣、宮路山城・冠山城を囲む。
  04/17軍事来島氏が羽柴秀吉に内通したため河野通直が道前に出陣、毛利輝元はこれを援けようとする。
  04/20合戦羽柴方の宇喜多忠家が加藤清正の加勢で備中冠山城の林重真を討ち、城を落とす。(日付は5/2とも)
  04/20軍事上杉景勝が越中魚津城救援に向け春日山城を出陣する。
  04/21軍事織田信長が甲斐から駿河を回り、家康の饗応を受けて安土へ戻る。
  04/25合戦羽柴方の宇喜多忠家が備中宮路山城を落とす。
  05/07軍事羽柴秀吉が本陣を蛙ヶ鼻に移し、清水宗治の拠る備中高松城を囲む。また、織田信長が三男の信孝に四国出陣を命じる。
  05/08軍事羽柴秀吉が備中高松城の周囲に昼夜兼行で築堤作業を開始する。
  05/15政治徳川家康・穴山梅雪が安土城の織田信長に招かれ参上、接待役明智光秀による歓待を受ける。
  05/15合戦上杉景勝が越中天神山に陣を置き、織田勢と戦う。
  05/17軍事織田信長が明智光秀に、徳川家康の接待役を解き中国出陣を命じる。
  05/19軍事羽柴秀吉による備中高松城周囲の築堤作業が完了する。
  05/21政治織田信忠が供回り五百人と共に京都二条室町の妙覚寺に入る。
  05/21軍事丹羽長秀が織田信孝を奉じて四国征伐に向かうため大坂に出陣する。また、備中では毛利輝元が吉川元春・小早川隆景を備中高松城の清水宗治救援のため岩崎山に出陣させ、自らは猿掛山に布陣する。
  05/21政治徳川家康がわずかな供回りを連れて京都に入る。
  05/26軍事明智光秀が近江坂本を出陣、丹波亀山に入る。
  05/27文化明智光秀が丹波愛宕山にて紹巴らを招き連歌会を催す。(日付は5/28とも)
  05/27軍事織田信長家臣の森長可が上杉景勝の留守に乗じ信濃から越後境を侵す。上杉景勝は越後春日山城危機の報に接し、越中から陣を払い帰国する。
  05/28軍事明智光秀が愛宕山から亀山城に戻る。
  05/28合戦細川忠興が一色義清の丹後弓木城を落とす。
  05/29政治織田信長が小姓らを連れ京都四条の本能寺に入る。また、徳川家康一行は泉州堺に入る。
  06/01文化織田信長が本能寺で博多の豪商島井宗室らを招き茶会を催す
  06/01軍事明智光秀が一万三千の軍を率いて丹波亀山城を出陣する。
  06/01文化徳川家康一行が堺で松井友閑から茶の湯の接待を受ける。
  06/02事件【本能寺の変】
明智光秀が京都本能寺に織田信長を襲い、信長は炎上する本能寺にて自刃。享年49歳。また、織田信忠は父信長を救出しようとするが果たせず、二条城(御所)で自刃。享年26歳。
  06/02合戦佐々成政が柴田勝家らの来援で上杉方中条景泰の拠る越中魚津城を落とす。一方、高野山攻めに赴いた織田勢は信長死去の報に退却、高野衆に反撃され痛手を受ける。
  06/02政治徳川家康一行が本能寺の変の報に接し、急ぎ堺を発つ。
  06/02事件穴山信君が山城宇治田原で一揆に殺される。享年不詳。
  06/03軍事明智光秀が瀬田に到着、坂本城へ向かう。また、安土城の守将蒲生賢秀は信長側室を奉じて日野城に避難する。一方、徳川家康一行は伊賀に入り、伊賀衆の警護により加太越えを行い伊勢白子から三河へと向かう。
  06/03合戦柴田勝家が上杉方の越中魚津城を落とす。城将中条景泰らは自刃。
  06/03政治備中高松の羽柴秀吉のもとに本能寺の変の報せが届き、安国寺恵瓊らと講和を急ぐ。
  06/04政治羽柴秀吉が信長の死を秘し毛利軍と和睦。備中高松城は落城し、城将清水宗治は自刃。
  06/04軍事徳川家康一行が伊勢白子より三河大浜に上陸、岡崎へ戻る。越中では魚津城に本能寺の変の報が届けられ、諸将は撤退する。
  06/05軍事明智光秀が長浜城・佐和山城を占領、焼け落ちた瀬田橋を修理して安土城に入城する。
  06/05事件織田信孝が丹羽長秀とともに明智光秀の女婿津田信澄を大坂城に攻め、これを討つ。信澄享年28歳。
  06/06軍事羽柴秀吉が明智光秀討伐へいわゆる「中国大返し」を開始、沼城へと向かう。
  06/06政治明智光秀が上杉景勝に援軍依頼の使者を送る。
  06/07軍事羽柴秀吉が沼城を出発し姫路城へと向かうが、柴田勝家は上杉軍に敗れて越前へ退却する。
  06/07政治明智光秀が朝廷の使者吉田兼見を安土城に迎える。
  06/08軍事羽柴秀吉が姫路城に到着する。一方、明智光秀は安土城を出て坂本城に向かう。
  06/09合戦羽柴秀吉が一隊を淡路島洲本に派遣し、明智方の将菅平平右衛門尉を攻撃する。
  06/09政治明智光秀が細川幽斎・忠興父子に協力を要請する密書を送る。
  06/09軍事明智光秀が京都下鳥羽へ出陣する一方、羽柴秀吉が姫路城に浅野長政を留守居として残し、明石へと向かう。また、関東では上野厩橋城の滝川一益のもとに本能寺の変の報せが届く(日付は6/6とも)。
  06/10軍事明智光秀が筒井順慶の出陣を促すべく下鳥羽から洞ヶ峠に出陣するが、順慶は秀吉に応じ大和郡山城に籠もる。(日付は6/11とも)
  06/11軍事明智光秀が洞ヶ峠から下鳥羽に帰陣、淀城の修理を行う。また、この日羽柴秀吉が摂津尼崎城に到着、近隣の諸将に参陣を呼びかける。
  06/12軍事羽柴秀吉が摂津富田に着陣、有岡城の池田恒興父子も羽柴軍に合流し、諸将の部署を定める。
  06/12合戦中川清秀が天王山を、高山重友が山崎を占領、明智軍先鋒と小競り合いとなる。
  06/13軍事織田信孝・丹羽長秀が摂津富田の羽柴秀吉軍に合流する。
  06/13合戦【山崎の合戦】
羽柴軍が山崎で明智軍と激突。二時間ほどの激闘の末に羽柴軍が勝利する。同夜坂本城へ向かう途中の明智光秀が、山科小栗栖で土民の槍にかかり落命。享年55歳。
  06/14軍事安土城の明智秀満が単騎湖水渡りを演じ坂本城へ退去する。また、徳川家康が明智光秀討伐のため軍を率いて岡崎城を出陣する。
  06/14合戦高山重友・中川清秀らが明智光秀の亀山城を攻め落とす。
  06/14事件近衛前久が京都を出奔して嵯峨に隠れ、剃髪し龍山と号す。
  06/15合戦明智秀満が坂本城で光秀の財宝を寄せ手の堀秀政に送り、秀満は光秀の妻を刺殺した後に一族と共に自刃。享年46歳。
  06/15事件織田信雄が何を思ったか安土城に火を放ち焼失させる。
  06/16軍事羽柴秀吉が安土城に入る。
  06/17政治明智光秀の首が京都本能寺に晒され、また近江堅田で捕らえられた光秀の家老斎藤利三が京都六条河原で斬首される。享年49歳。
  06/17軍事徳川家康が尾張熱田で羽柴秀吉が明智光秀を討ったことを聞き、軍を返す。
  06/18合戦伊勢へ退却中の滝川一益が神流川で北条軍と戦い大敗する。(神流川の戦い)
  06/18一揆甲斐代官河尻秀隆が一揆勢に襲われ、武田遺臣三井弥一郎に討たれる。享年56歳(日付は6/15とも)。
  06/19政治羽柴秀吉が徳川家康に山崎の戦勝を報告する。
  06/20軍事羽柴秀吉が美濃に進み、次いで清洲城に入る。
  06/27政治清洲会議で羽柴秀吉が柴田勝家を押さえて主導権を握り、自ら後見する三法師が世継ぎに決まる。
  07/08政治羽柴秀吉が京都で指出検地を行う。
  07/09軍事徳川家康が甲斐侵攻を開始する。
  07/12政治毛利の使僧安国寺恵瓊が羽柴秀吉を山崎に訪れる。
  07/16政治小笠原貞慶が旧領の信濃深志郡を回復し、松本と改称する。
  08/01軍事北条氏政が甲斐侵攻を開始する。
  08/07政治羽柴秀吉が浅野長吉・杉原家次を京都奉行に任命する。
  08/07軍事北条氏政が甲斐若御子に着陣する。
  08/10軍事徳川家康が甲斐新府に着陣、若神子で北条氏直とにらみ合いとなる。
  08/15合戦伯耆佐陀の杉原景盛が兄元盛を殺害したため、毛利輝元が諸将に命じてこれを討つ。
  08/28合戦勝瑞城攻略を目指す長宗我部元親が十河存保と中富川で戦い、これを破る。また、奥羽では小野寺義道と由利十二頭が対立、雄物川畔大沢で戦う。
  08/30政治徳川家康が木曾義昌に本領を安堵する。
  09/08事件長岡忠興が丹後弓木の一色義有を宮津城に誘殺し、弓木城を奪う。
  09/16事件長宗我部元親が新開道善(実綱)を丈六寺に誘殺する。

※使用年表: 『戦国詳細年表ver1(1496-1615)』 copyright(c)1999 M.Sakamoto
※年表の無断転載はご遠慮下さい。


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