年表で見る「川中島の合戦」(1561年9月10日)

【合戦の概略】

これも戦国史上抜群の知名度を誇る、武田信玄と上杉謙信の戦い。実は両者は信州川中島において5回戦闘を交わしている(10回以上との説もある)のだが、通常「川中島の合戦」といえば、1561年に行われた第4回目の時のものをいう。
戦術的駆け引きも互角、結果も互角、損害も互角で、両軍とも何も得ることのない戦いであったと言えよう。特に武田軍では信玄の弟・信繁や参謀・山本勘助を失ったのが大きく、以後両家の間にこれといった華々しい戦闘はない。
謙信が単騎信玄本陣に切り込み、信玄は軍扇でその刀を受けたとされる名シーンもこの合戦の時のものとされるが、確証はない。


※年表は合戦前1年間、合戦後3ヶ月間の全国の出来事を表示しています。(日付欄の * 印は閏月)
西暦日付種別内容
1560
永禄3
09/01軍事大友氏の兵が再び伊予宇和郡三間に侵入する。
  09/19政治関白近衛前久が京都を発ち、越後の長尾景虎のもとへ向かう。
  09/28合戦長尾景虎が沼田城を攻略、引き続いて厩橋城に入城。
  10/05合戦伊予に侵入した大友氏の兵が、宇和郡石城を落とす。
  10/15合戦三好長慶が河内高屋城救援に来た根来衆を破る。
  10/17政治武田信玄が北条氏康救援のため、加賀・越中の一向宗徒を越後に侵入させるよう本願寺顕如に要請する。
  10/24合戦三好長慶が河内飯盛城の守護代安見安房を攻撃する。
  10/27合戦三好長慶が河内高屋城の守護畠山高政を攻撃する。
  11/13政治三好長慶が河内飯盛城に入り、弟義賢(実休)に高屋城を与える。
  11/29合戦松永久秀が大和沢・桧牧を攻め、宇陀郡をその配下に置く。
  12/24死去尼子晴久が石見に侵入した毛利元就との防戦中に月山富田城内で倒れ急死。享年47歳。
1561
永禄4
01/17死去美濃の臨済僧で大徳寺住持の玉堂宗条が歿す。享年82歳。
  01/24政治三好義興と松永久秀が入洛、義興が足利義輝の相伴衆に任命される。
  01/24誕生近世朱子学の祖・藤原惺窩が冷泉為純の子として生まれる。
  02/11軍事長尾景虎が家臣の蔵田五郎左衛門に府内の警備を命じる。
  02/19誕生徳川四天王の一人・井伊直政が生まれる。
  02/23軍事小田原攻めに向かった長尾景虎が兵を上野赤石に移したため、北条氏照が小田原より武蔵滝山城に入城し備えを固める。
  03/01文化イエズス会宣教師ルイス・フロイスが古家を買い取り仮聖堂を建てる。
  03/07軍事長尾景虎が関東管領上杉憲政を奉じて北条氏康の籠もる小田原城を包囲する。
  03/11政治長尾景虎が越後上田荘・妻有荘・薮神の水損に対して徳政を行う。
  03/13合戦長尾景虎が北条氏康・氏政父子の拠る相模小田原城への攻撃を開始する。
  03/14合戦大藤式部が長尾景虎勢と相模大住郡大槻に戦う。
  03/30政治将軍足利義輝が三好長慶邸に御成りの際、細川晴元との和睦を提案する。
  *03/16政治鶴岡八幡宮にて長尾景虎が上杉憲政から名跡を譲り受け関東管領に就任。以後上杉政虎を名乗る。
  04/06文化朝倉義景が越前大窪浜で犬追物を行う。
  04/15事件三河の菅沼一族が今川氏に背き松平元康の傘下に入る。
  04/23死去三好長慶の弟で「鬼十河」の異名を持つ讃岐の猛将十河一存が病歿。享年は推定30歳前後。
  05/06政治三好長慶と細川晴元が和睦し、晴元は摂津富田普門寺に入る。
  05/07政治武田信玄の子・盛信が仁科氏を称す。
  05/08誕生絵師・狩野光信が生まれる。父は狩野永徳。
  05/11死去美濃の斎藤義龍が病死。享年33歳。
  05/13軍事織田信長が美濃国内の動揺につけ込み西美濃に侵攻、勝村に陣を張る。
  05/14合戦斎藤龍興が侵入してきた織田信長と美濃森辺(部)で戦うが、長井甲斐守・日比野下野守ら有力武将を失い敗れる(森辺の合戦)。また、九州では島津家と小康状態にあった肝付家が些細なことから怒り、肝付兼続が島津方大隅廻城を攻撃する。
  05/23合戦墨俣にいた織田信長が十四条村に軍勢を繰り出した斉藤龍興と戦うが、織田方では先鋒の信益、斎藤方では稲葉又左衛門が戦死し双方とも撤兵する。
  05/27文化三好長慶が河内飯盛城で千句連歌を催す。
  06/10軍事上杉謙信が北条氏康軍と再び対陣する。
  06/19事件若狭武田義統の臣粟屋勝久・逸見昌経らが丹波の松永長頼と謀り義統を攻めたため、朝倉義景が朝倉景紀を派遣し義統を援ける。
  06/23合戦島津貴久が大隅廻城攻めを開始する。
  06/28軍事上杉謙信が厩橋城を出て越後に帰る。
  07/07文化イエズス会宣教師ガスパル・ヴィレラが堺の商人日比屋了珪に招かれて堺に赴く。
  07/12合戦島津貴久が大隅廻城を攻め、島津貴久の弟忠将が戦死するが城は落とす。忠将享年42歳。
  08/01合戦大友義鎮が豊前門司城を陸からは吉弘加兵衛尉の一万五千で、海からはポルトガル船の砲撃で総攻撃する。
  08/02死去徳川家康を竹千代時代に養育した隋念院が歿す。享年不詳。
  08/03婚姻木下藤吉郎と浅野長勝の養女おねが、清洲の足軽長屋で結婚式を挙げる。
  08/08軍事上杉謙信が一万三千の軍を率いて越後春日山を発つ。
  08/16軍事上杉謙信が信濃海津城西の妻女山を占領し布陣する。
  08/18軍事謙信出陣の報を受けた武田信玄が一万八千の軍を率いて信濃川中島に出陣する。
  08/19政治幕府が朝廷に、内裏六町の町衆に将軍義輝邸の堀を掘らせる許可を請い、認められる。
  08/21軍事毛利元就が隆元・小早川隆景を豊前門司城救援に派遣する。
  08/24軍事武田信玄が信濃川中島に到着、雨宮の渡し付近に布陣する。
  08/24合戦松平元康が今川氏真の属城三河長沢城を攻略する。
  08/29軍事武田信玄が信濃海津城に入城する。
  09/09軍事武田信玄が軍議を開き、席上山本勘助が「啄木鳥の戦法」を献策、採用される。
  09/10合戦【川中島の合戦】
上杉謙信と武田信玄が信濃川中島で大激戦。前半は上杉勢、後半は武田勢が優勢で決着はつかず、両軍とも多数の死傷者を出し痛み分けの結果となった。
  09/10死去武田信玄の弟信繁、参謀・山本勘助が川中島合戦で戦死。信繁享年37歳、勘助享年不詳。
  09/13合戦龍造寺隆信が肥前川上一帯で神代勝利と戦い、これを破る。また三河では松平元康が東条城の吉良義昭を攻め、西三河を平定する。
  09/22文化絵師・土佐光茂が正親町天皇筆の般若心経に金銀泥絵を描く。
  09/28合戦織田信長が、美濃堂洞城の斉藤方岸勘解由らを攻め、これを落とす。
  10/02軍事大友義鎮が豊前門司城奪回を目指して城の麓に進出する。
  10/13政治松永久秀が眉間寺を廃し、多聞城を築く。
  10/24政治尼子義久が日御碕社に宇竜浦の支配権を安堵する。
  10/26合戦毛利元就と大友宗麟が門司城で激戦。程なく大友軍は退却。
  10/27政治尼子義久が唐船などの船役の内容を定める。
  11/02事件織田信長が清洲城北櫓内で、病と偽り呼び寄せた弟信行を殺害。
  11/05軍事大友義鎮が豊前門司城から撤兵する。
  11/08合戦里見義弘が水軍を率いて北条領相模三浦に攻め寄せる。
  11/12合戦上杉謙信が下野小山城を攻める。
  11/20合戦武田信玄が碓氷峠を越え上野に侵攻、甘楽郡国峰城を攻め落とす。
  11/22誕生豊臣秀吉の従兄弟・福島正則が生まれる。
  11/22死去「上州の黄班」の異名を持つ猛将長野業正が上野箕輪城で病歿。享年71歳(日付は6/21とも)。
  11/27合戦上杉謙信が上野厩橋城に入り、続いて北条氏康と武蔵松山で戦う。
  11/28政治今川氏真が御用商人松木氏の蔵役を免除する。
  12/05政治蘆名盛氏が領内に徳政令を出す。
  12/21政治島津氏と肝付氏の間に一旦和議が成立する。

※使用年表: 『戦国詳細年表ver1(1496-1615)』 copyright(c)1999 M.Sakamoto
※年表の無断転載はご遠慮下さい。


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