年表で見る「三方ヶ原の合戦」(1572年12月22日)

【合戦の概略】

武田信玄と徳川家康との間で、遠江国(静岡県)三方ヶ原台地にて行われた、家康一世一代の難戦。上洛を目指す信玄は遠江に侵入、浜松城に籠もる家康をおびき出すべく、浜松の北に広がる三方ヶ原を横切って通過しようとした。
家康は力の差から戦えば負けると分かり切っていたが、悠々進軍する武田軍を国主のプライドが許さず、玉砕覚悟で戦いを挑んだ。結果は惨たるもので、信長からの援軍を含め完膚無きまでにたたきのめされ、命からがら浜松城へ逃げ帰った。
敗れはしたが、この結果領民や家臣の信頼がより強くなり、家康には大きなプラスとなった戦いであった。なお、信玄は陣中にて病(労咳=肺結核)を得て、上洛を果たせぬまま没した。


※年表は合戦前1年間、合戦後3ヶ月間の全国の出来事を表示しています。(日付欄の * 印は閏月)
西暦日付種別内容
1571
元亀2
12/15誕生後陽成天皇が生まれる。誠仁親王の第一皇子。
  12/27文化毛利氏による安芸厳島神社本殿の再建造営工事が完了、遷宮の儀が行われる。
  12/27政治武田信玄と北条氏政が誓紙を交換して講和、同盟を結び上杉謙信と断交する。
1572
元亀3
01/14政治本願寺顕如が武田信玄に、織田信長の背後を突くよう依頼する。
  01/15政治武田信玄と結んだ北条氏政が、かつて越相同盟を仲介した由良成繁に釈明する。
  *1/03合戦上杉謙信が武田方の属城石倉城を落とし、厩橋城に入る。武田信玄は利根川を挟んで対峙。
  02/10政治将軍義昭が淀に築城するため山城国内に人夫役を課す。
  03/08軍事朝倉義景が織田信長の江北出陣の動きに対し、出陣の準備をする。
  03/10軍事織田信長が安土常楽寺に陣を張る。
  03/11合戦織田信長が近江和邇(わに)に布陣し六角氏残党を掃討、木戸・田中城に追い込む。
  04/01死去琉球王尚元が病歿。享年45歳。
  04/02合戦龍造寺隆信が養父郡朝日山・勝尾両城を攻略、筑紫広門は降伏。
  05/02事件朝倉義景が三好義継に発した密使が信長方に捕らえられ、一条戻橋で焼き殺される。
  05/04合戦伊藤義祐が川上忠智の守る加久藤城に攻め寄せ、援軍の島津義弘と飯野川原で戦うが大敗する(木崎原合戦)。
  05/28政治毛利輝元が弥権大夫に防府の宮市魚物役の徴収権を安堵する。
  06/15一揆上杉方の鰺坂長実・山本寺定長らが越中・加賀一向一揆と戦うが敗れる。
  07/19軍事織田信長が北近江虎御前山に布陣して浅井長政を圧迫したため、朝倉義景が救援に出陣して信長と対峙する。
  07/25文化狩野松栄が『瀟湘(しょうしょう)八景図』を描く。
  08/18軍事上杉謙信が越中新庄城に入り、これに対抗して加賀一向一揆が玄任の要請で越中富山城へと向かう。
  08/26死去伊予守護で湯築城主河野通直が病歿。享年24歳。
  09/16軍事織田信長が北近江虎御前山を木下秀吉に守らせ、八相山・宮部に砦を築き横山城と連絡を取る。
  09/29軍事武田信玄の別働隊山県昌景が五千の兵を率いて先発する。
  10/01一揆加賀・越中の一向宗徒が蜂起して越中を攪乱、上杉謙信が富山城を落としこれに対抗する。
  10/03軍事武田信玄が上洛のため二万二千の兵を率いて甲府を進発、遠江へ向かう。
  10/10合戦武田信玄が家康方遠江飯田城を落とす。
  10/12合戦武田信玄が家康方遠江只来(たたら)城を落とす。
  10/13軍事徳川家康が三千の兵をもって威力偵察させるが、一言坂で小競り合いとなり退却する。
  10/14軍事武田信玄が遠江合代島に陣を置き、家康方二俣城を囲む。
  10/20死去京の医者で2度明に渡り皇帝世宗に薬を献上した吉田宗桂が病歿。享年61歳。
  11/03合戦浅井長政・朝倉義景が織田信長勢を攻撃をする。
  11/14合戦武田方の秋山信友が美濃岩村城を攻め、遠山景任夫人との再婚を条件に城を奪取。
  11/19政治武田信玄が越前の朝倉義景に遠江出陣の近況と今後の作戦計画を報じる。
  11/20政治織田信長と上杉謙信が同盟を結ぶ(日付は11/7とも)。
  11/23文化将軍義昭が日蓮宗の不受不施の制法を承認する。
  12/01政治毛利輝元が年寄衆・奉行衆に対し十一箇条の掟を制定する。
  12/02政治織田信長が清洲城下に唐人方並びに呉服方商売司を置き、伊藤惣十郎を任命して呉服の商売統制を命じる。
  12/03軍事朝倉義景が兵を北近江から退き、越前に帰る。
  12/03死去岩村城主遠山景任が歿す。上村合戦で受けた槍傷が原因といわれる。享年36歳。
  12/06文化細川藤孝が三条西実枝に誓書を提出して古今伝授を受ける。
  12/19合戦武田勝頼が遠江二俣城を水の手を断って落とす。
  12/21軍事徳川家康が信玄西進の報を聞き、浜松城で信長援軍の平手汎秀らと軍議を開く。
  12/22合戦【三方ヶ原の合戦】
武田信玄が遠江三方ヶ原で徳川家康を撃破、家康は命からがら浜松城に逃げ帰る。織田方の援将平手汎秀は伊場で戦死。
  12/23軍事武田信玄が再び西進を開始する。
  12/24政治武田信玄が遠江三方ヶ原での戦勝を越前の朝倉義景に報じる。
  12/28政治武田信玄が朝倉義景の北近江撤兵を非難する。
1573
天正元
01/01死去村上義清が旧領信濃に戻ることなく越後根知城で病歿。享年73歳。
  01/03軍事武田信玄が徳川方菅沼定盈・松平忠正の拠る三河野田城を囲む。
  01/06合戦肝付氏の大軍が大隅末吉を攻める。
  01/08政治松永久秀が名刀・不動国行を岐阜城の織田信長に献上する。
  01/10死去京都の神道家吉田兼右が没す。享年58歳。
  02/06政治本願寺顕如が朝倉義景の撤兵を非難し、武田信玄の三河野田城包囲の様子を伝え、至急近江出兵を要請する。
  02/10合戦武田信玄が徳川方菅沼定盈・松平忠正の拠る三河野田城に攻めかかる。
  02/13軍事将軍義昭が信長包囲網を作り挙兵する。
  02/15合戦武田信玄が徳川方菅沼定盈・松平忠正の拠る三河野田城を落とす。
  02/17軍事将軍義昭が新御所の堀普請を行う。
  02/20軍事近江園城寺の光浄院暹慶(山岡景友)らが将軍義昭に応じ、一向宗徒を糾合し石山・堅田で籠城、織田信長は柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀らに討伐を命じる。
  02/26合戦織田方柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀らが近江石山城を落とす。
  02/27政治本願寺顕如が上杉謙信牽制のため、武田信玄に信濃出兵を要請する。
  02/29合戦織田方明智光秀・丹羽長秀・蜂谷頼隆らが近江堅田城の一揆・地侍衆を撃破、信長が西近江を統一する。
  03/05政治本願寺顕如が再び朝倉義景の近江出兵を要請する。
  03/06軍事将軍義昭が三好三人衆・松永久秀らと通じ、信長の人質を返して講和申請を拒否、宣戦布告する。
  03/13合戦摂津池田城主・池田知正が京都八条に出陣、東寺衆徒と争う。
  03/18政治朝倉義景が多湖宗右衛門尉に近江十乗坊への赴援を依頼し、自身の出陣を約す。
  03/25軍事織田信長が将軍義昭攻撃のため京都へ向け軍を発す。
※参考04/12死去上洛を目指した武田信玄が、労咳のため帰国途中に伊那駒場で病歿。享年53歳。

※日付欄の * 印は閏月を表します。
※使用年表: 『戦国詳細年表ver1(1496-1615)』 copyright(c)1999 M.Sakamoto
※年表の無断転載はご遠慮下さい。


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