【合戦の概略】 日本中の大名が東西両軍に分かれて戦った戦国史上一の大決戦。蟄居中の石田三成は上杉景勝と連携し、家康が上杉討伐に向かった隙に兵を挙げる。戦いは序盤は互角であったが、西軍・小早川秀秋の裏切りにより形勢は一挙に逆転。あっというまに西軍の敗北となった。 この勝利により家康はほぼ全国制覇を果たし、3年後に江戸幕府を開いて名実ともに戦国の覇王となった。軍勢の数は互角でも、結局は三成と家康の人間の器の大きさが勝敗を決めたといえる。三成は伊吹山中に逃れるが、程なく田中吉政の手により捕らえられ、小西行長・安国寺恵瓊らとともに六条河原で斬首された。 ※年表は合戦前6ヶ月間、合戦後3ヶ月間の全国の出来事を表示しています。 |
西暦 | 日付 | 種別 | 内容 |
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1600 慶長5 | 03/15 | 事件 | 上野高崎烏川で馬庭念流・樋口定次と村上天流・村上権左衛門が決闘、定次が勝つ。 |
03/16 | 事件 | オランダ船リーフデ号が豊後海部郡臼杵荘佐志生沖に漂着する。 | |
04/01 | 政治 | 徳川家康が豊光寺承兌に命じ、直江兼続に書状を送る。 | |
04/14 | 政治 | 直江兼続が家康に返書、いわゆる「直江状」を送る。 | |
04/27 | 政治 | 島津義弘が大坂城の家康に謁して荘内の乱調停の労を謝す。家康は義弘に会津出征時の伏見城の守備を依頼する。 | |
05/03 | 政治 | 徳川家康が直江兼続の返書に激怒、会津征伐の意を固める。 | |
05/12 | 政治 | 徳川家康が漂着したリーフデ号の乗員ウィリアム・アダムズ(後の三浦安針)とヤン・ヨーステンを大坂城で引見する。 | |
05/19 | 政治 | 捕虜として日本に送られた朝鮮の儒者カンハンが、徳川家康の施策により帰国する。 | |
05/29 | 政治 | 豊臣秀頼の寄進により、毛利輝元を奉行に近江園城寺勧学院客殿が再建される。 | |
06/02 | 軍事 | 徳川家康が関東諸将に上杉景勝討伐の期日を通告、軍備を命じる。 | |
06/06 | 政治 | 前田利長の母芳春院が人質として自ら江戸に赴く。 | |
06/08 | 軍事 | 徳川家康が上杉景勝討伐について諸将を大坂城に集めて軍議を行い、山形城主最上義光の侵攻路を米沢口、前田利勝・堀秀治は越後津川口など、それぞれの担当部署を定める。 | |
06/10 | 政治 | 上杉景勝が仙道諸将に檄を飛ばし、徳川家康との決戦の意を固めさせる。 | |
06/15 | 政治 | 豊臣秀頼が大坂城西の丸にて家康と会い、黄金二万両と米二万石などを贈る。 | |
06/16 | 軍事 | 徳川家康が会津征伐に向け、大坂城を出陣する。同時に伊達政宗らも帰国の途につく。 | |
06/17 | 死去 | 豊臣秀吉の侍医竹田定加が歿す。享年55歳。 | |
06/18 | 軍事 | 徳川家康が伏見城を出陣、会津征伐に向かう。 | |
06/20 | 軍事 | 石田三成が上杉家の直江兼続に家康の伏見出陣を報せ、上杉家の対応を問う。 | |
06/21 | 軍事 | 徳川家康に従軍するため敦賀を出陣した大谷吉継が美濃垂井に到着、石田三成から佐和山へ呼ばれ西軍加担要請を受ける(日付は7/2とも)。 | |
06/22 | 軍事 | 徳川家康が三河吉田に到着、城主池田輝政の饗応を受ける。 | |
06/23 | 軍事 | 徳川家康が遠江浜松城に入り、城主堀尾忠氏の饗応を受ける。 | |
06/29 | 軍事 | 徳川家康が鎌倉の鶴岡八幡宮に詣で、戦勝を祈願する。 | |
07/02 | 軍事 | 徳川家康が品川で秀忠の迎えを受け、ともに江戸城に入る。 | |
07/05 | 軍事 | 石田三成が長男重家を徳川家康のもとから佐和山へ呼び戻し、京都では宇喜多秀家が豊国社で出陣式を盛大に執り行う。 | |
07/07 | 軍事 | 大谷吉継が石田三成からの西軍加担要請を断り、一旦垂井に戻る。京都では宇喜多秀家室豪姫らが豊国社に必勝祈願の「湯立神楽」を奉納する。一方、徳川家康が上杉景勝討伐につき、仙北・秋田・由利諸士に対し最上義光指揮下に入り米沢表への参陣を命じる。 | |
07/11 | 軍事 | 大谷吉継が石田三成の説得に応じこれに加担する事を決心し、近江佐和山城へ入り家康討伐の謀議を行う。 | |
07/12 | 軍事 | 石田三成・大谷吉継が安国寺恵瓊・増田長盛らに同調することを求め毛利輝元推戴の件を協議するが、増田はこれを家康に密告する。 | |
07/15 | 軍事 | 毛利輝元が大坂へ向け広島城を出陣する。 | |
07/17 | 政治 | 前田玄以・増田長盛・長束正家が徳川家康弾劾の檄文と、罪悪十三箇条を挙げた「内府違ひの条々」を諸大名に発す。 | |
07/17 | 事件 | 細川ガラシャ夫人(忠興の妻)が石田三成の入城要請を蹴り、玉造の自邸で家臣小笠原少斎の手により昇天。 | |
07/17 | 死去 | 豊臣家三中老の一人、中村一氏が駿河府中城で病歿。享年不詳。 | |
07/17 | 軍事 | 毛利輝元が大坂城西ノ丸へ入り、豊臣秀頼を奉じて西軍の主将となる。 | |
07/18 | 軍事 | 細川幽斎が丹後宮津の諸城を焼き、田辺城に籠城する。 | |
07/19 | 軍事 | 宇喜多秀家ら西軍が徳川方鳥居元忠の籠もる伏見城を包囲する。また家康のもとに増田からの密告が届き、秀忠は江戸を出陣して会津へ向かう。 | |
07/19 | 事件 | 水野忠重が三河池鯉鮒で堀尾吉晴を饗応中、加賀井秀望に刺殺される。享年60歳。 | |
07/21 | 合戦 | 西軍の小野木重勝らが田辺城を包囲、銃撃戦を開始する。 | |
07/21 | 軍事 | 徳川家康が江戸を出陣、会津へ向かう。 | |
07/21 | 政治 | 真田昌幸・信幸・幸村親子が石田三成の密書を受け取り下野犬伏で談合、東西両軍に別れる。 | |
07/22 | 合戦 | 伊達政宗が上杉方の将甘糟虎氏(清長)の守る白石城を攻める。 | |
07/23 | 政治 | 伏見城を包囲中の宇喜多秀家が豊国社を参詣、金一枚を奉納する。 | |
07/24 | 軍事 | 徳川家康が下野小山に着陣する。 | |
07/25 | 軍事 | 徳川家康が諸将に石田三成の挙兵を告げ小山で評定を開き、三成征伐を決定する。 | |
07/26 | 軍事 | 東軍の前田利長が大聖寺城攻略に向け金沢を出陣する。 | |
07/27 | 政治 | 八条宮智仁親王が丹後田辺城の細川幽斎に侍臣大石甚介を派遣し開城を勧めるが幽斎は拒否、その際古今集証明状と和歌・源氏抄二十一代集などを献上する。 | |
07/29 | 政治 | 徳川家康が大和掌握を策し、柳生宗厳のもとへ書状を認め子の宗矩を走らせる。遠藤慶隆に対しては美濃郡上郡回復のための侵攻を許可する。石田三成が佐和山から伏見に到着する。 | |
08/01 | 合戦 | 西軍が伏見城を攻め落とす。家康家臣で忍城主松平家忠は討死、城将の鳥居元忠は自刃。家忠享年46歳、元忠享年62歳。 | |
08/01 | 軍事 | 岐阜城主織田秀信が遠藤胤直のもとに激励状と鉄炮三十挺および弾薬を届ける。 | |
08/02 | 軍事 | 上杉景勝勢が越後に出陣、旧臣らがこれに応じて一揆を起こす。 | |
08/02 | 政治 | 徳川家康が下野小山から密使を白石へ走らせ、伊達政宗に覚え書きを与える。 | |
08/03 | 合戦 | 前田利長が大聖寺城を攻略、城将山口宗永。修弘父子は自刃する。 | |
08/05 | 政治 | 石田三成が清洲城の開城を求める使者を派遣するが、留守居の大崎玄蕃はこれを拒否する。また真田昌幸宛に恩賞の確約と西軍有利を強調した書状を送り、昌幸を鼓舞する。 | |
08/05 | 軍事 | 徳川家康が下野小山から江戸城に戻る。 | |
08/06 | 軍事 | 西軍の石田三成が六千七百騎を率いて美濃垂井に進出する。 | |
08/07 | 政治 | 徳川家康が伊達政宗に書状を発し、秀忠・佐竹義宣の双方と協力して上杉に当たるよう命じる。 | |
08/09 | 合戦 | 前田利長が丹羽長重と加賀浅井畷で戦う。 | |
08/10 | 軍事 | 西軍の石田三成が大垣城主伊藤盛正を説得し開城させ入城、東軍の出方をうかがう。 | |
08/11 | 軍事 | 東軍の先鋒福島正則らが清洲に到着する。 | |
08/12 | 軍事 | 東軍の先鋒が那古屋に到着する。 | |
08/12 | 政治 | 徳川家康が細川忠興には但馬一国の加増、加藤清正には肥後・筑後を与えることを約す。また宇都宮在陣中の徳川秀忠が北ノ目城に入った正宗に対し、協力して作戦を遂行したい旨の書状を発す。 | |
08/14 | 軍事 | 東軍の諸将が清洲城に集結する。 | |
08/14 | 政治 | 徳川家康が九鬼守隆に南伊勢五郡を与えることを約し、東軍加担を要請する。 | |
08/16 | 合戦 | 東軍の徳永寿昌らが丸毛兼利の拠る美濃福束城を攻め落とす。兼利は大垣城へ逃れる。 | |
08/18 | 文化 | 京都の釜師辻与次郎が、秀吉の三回忌にあたり豊国社に「天下一」の銘を刻んだ鉄製雲竜文灯籠を寄進する。 | |
08/19 | 合戦 | 東軍の徳永寿昌らが高木一族の拠る美濃高須・駒野・津屋城を攻め落とす。駒野城の高木帯刀は降伏、高須城の高木盛兼と津屋城の高木正家は大垣城へ逃れる。 | |
08/19 | 政治 | 徳川家康の使者村越茂助が清洲城に到着する。 | |
08/20 | 政治 | 豊臣家五大老が肥前の松浦鎮信に海賊行為の停止を命じる。また徳川家康が遠藤慶隆に対し、再度美濃郡上郡回復のための侵攻を許可する。 | |
08/20 | 軍事 | 東軍の諸将が清洲城で軍議を開き、岐阜攻撃の部署を定める。一方、石田三成は島津義弘を墨俣に派遣して守らせる。 | |
08/21 | 軍事 | 東軍の諸将が岐阜城攻めに向け、清洲城を出陣する。 | |
08/22 | 政治 | 徳川家康が伊達政宗に旧領の刈田・伊達・信夫郡などを回復することを約す(世にいう「百万石のお墨付」)。 | |
08/22 | 合戦 | 東軍の池田輝政らが米野で織田秀信勢を破り、福島正則は竹鼻城を攻め落とす。守将杉浦重勝は自刃。 | |
08/22 | 軍事 | 東軍の動きを察知した石田三成が、合渡には舞兵庫ら、墨俣には島津義弘を派遣し、自身は小西行長と佐渡に布陣する。 | |
08/23 | 合戦 | 東軍の黒田長政・田中吉政らが河渡川で西軍の舞兵庫らを破る。また池田輝政らは岐阜城を攻め落とし、守将織田秀信は降伏する。 | |
08/24 | 軍事 | 徳川秀忠が宇都宮を出陣、中山道経由で美濃へ向かう。 | |
08/24 | 合戦 | 毛利秀元らの西軍が伊勢安濃津城を包囲し攻撃する。 | |
08/25 | 合戦 | 毛利秀元らの西軍が伊勢安濃津城を攻略、高野山木食上人の仲裁で城将富田信高は剃髪して開城。 | |
08/26 | 軍事 | 西軍の石田三成が美濃大垣から近江佐和山城に戻り戦備を拡充する。 | |
09/01 | 軍事 | 徳川家康が三万の兵を率いて江戸を出陣する。また中山道経由で進軍中の徳川秀忠が軽井沢に到着する。 | |
09/01 | 合戦 | 東軍の遠藤慶隆らが郡上八幡城に攻めかかる。 | |
09/02 | 軍事 | 徳川秀忠が小諸城に入り、真田信幸を上田城に派遣して真田昌幸の降伏を勧告させる。西軍の大谷吉継が越前から美濃に入り、山中村宮上に布陣する。 | |
09/02 | 合戦 | 東軍の遠藤慶隆らが郡上八幡城を攻略する。 | |
09/03 | 政治 | 丹後田辺城の細川幽斎が勅を奉じて丹波亀山城に退く。 | |
09/03 | 軍事 | 一旦西軍に加わっていた京極高次が北陸征討軍から突如離脱、大津城に戻って籠城する。また徳川家康が小田原に到着する。 | |
09/03 | 合戦 | 八幡城の危急を聞いた稲葉貞通が犬山より取って返し、遠藤慶隆等を城外に破る。 | |
09/04 | 軍事 | 徳川家康が伊豆三島に到着する。 | |
09/05 | 合戦 | 遠藤慶隆が同族胤直の籠もる上ヶ根砦を落とす。 | |
09/05 | 軍事 | 徳川家康が駿河清見関に到着する。 | |
09/06 | 合戦 | 徳川秀忠が染谷村に布陣して真田昌幸・幸村父子の籠もる上田城を攻撃するが、真田父子に翻弄される。 | |
09/06 | 軍事 | 徳川家康が駿河島田に到着する。 | |
09/07 | 軍事 | 毛利秀元・吉川広家が伊勢から美濃に入り、南宮山に布陣する。また徳川家康が遠江中泉に到着する。 | |
09/08 | 合戦 | 毛利元康・立花宗茂ら西軍が大津城に攻めかかる。 | |
09/08 | 軍事 | 徳川家康が遠江白須賀に到着する。この日、小早川秀秋の使者が家康の宿所に着く。 | |
09/09 | 軍事 | 上杉方の直江兼続が最上攻めに向け米沢を出陣する。また西軍に加担した大友義統が長門から豊後に上陸、侵攻を開始する。一方、徳川家康が三河岡崎に到着する。 | |
09/10 | 軍事 | 徳川秀忠が上田城攻撃を断念、押さえの兵を残して急ぎ関ヶ原へ向かい、家康は尾張熱田に到着する。また中津城を出陣した東軍の黒田如水が豊後高田城付近に到着する。 | |
09/11 | 軍事 | 徳川家康が尾張一宮で藤堂高虎と会い、次いで清洲城に入る。また前田利長が再度金沢を出陣する。 | |
09/12 | 政治 | 後陽成天皇が田辺城の細川幽斎に勅使を派遣し開城を勧告、幽斎はこれを受け入れ開城を決意する。 | |
09/13 | 合戦 | 黒田如水が豊後石垣原で大友義統と戦い、三日間の激闘の後これを破る。一方、上杉方の直江兼続が色部修理を先手として最上方畑谷城を攻める。 | |
09/13 | 軍事 | 徳川家康が岐阜城に入る。また徳川秀忠が信濃諏訪に到着する。 | |
09/14 | 軍事 | 徳川家康が昼頃美濃赤坂城に入り、諸将と軍議を開く。一方、石田三成・小西行長・宇喜多秀家らが美濃大垣城で軍議を開く。 | |
09/14 | 合戦 | 西軍の島左近らが杭瀬川で東軍の中村・有馬勢を破る。この夜、西軍が大垣城から関ヶ原へ移る。 | |
09/15 | 合戦 | 【関ヶ原の合戦】 美濃関ヶ原において東軍が西軍を破る。大谷吉継は自刃(享年42歳)し、勇将島左近も戦死。島津義弘の退却戦では島津豊久・阿多盛淳が義弘の身代わりとなり壮絶な討死を遂げる。またこの日西軍の毛利元康・立花宗茂らが京極高次の拠る大津城を攻め落とし入城、高次は木食上人の和議を受け入れ高野山へ向かう。一方、早暁には東軍の水野勢らが大垣城へ攻め寄せる。 | |
09/15 | 政治 | 山形城主最上義光が北ノ目城にいる伊達政宗に、使者と嫡子義康を送り援軍を依頼する。 | |
09/15 | 軍事 | 上杉方の直江兼続が最上方の志村光安が籠もる長谷堂城を包囲する。 | |
09/16 | 軍事 | 東軍が関ヶ原から石田三成の本拠佐和山城に向かう。また、関ヶ原より脱出した島津義弘が近江水口に到着する。 | |
09/17 | 合戦 | 石田三成に応じた毛利氏の兵が伊予三津浜に陣し加藤嘉明を攻めるが、嘉明の将佃十成の夜襲を受け敗れる。 | |
09/17 | 軍事 | 東軍が石田三成の父正継の守る近江佐和山城へ攻めかかる。東北では伊達(留守)政景が出陣、柴田郡砂金(いさご)に進軍する。また、島津義弘が八十騎に討ち減らされながらも、近江水口から伊賀・大和を抜け河内平野に到着する。 | |
09/18 | 合戦 | 近江佐和山城が東軍に攻め落とされ、三成の父正継や兄正澄ら一族は自刃する。また、九州では黒田孝高が熊谷氏の安岐城、垣見氏の富来城を攻め落とし、栗山利安に毛利高政の佐伯・角牟礼・日隈の三城を攻めさせる。 | |
09/18 | 政治 | 石田方の小野木重勝に包囲されていた丹後田辺城の細川幽斎が、三度の勅使下向により停戦を受諾。また、徳川家康が小早川秀秋の戦功を賞し備前を与える。 | |
09/18 | 軍事 | 関ヶ原より脱出した島津義弘が、河内平野から住吉に到着する。 | |
09/19 | 合戦 | 黒田如水が豊後安岐城を攻略する。 | |
09/19 | 政治 | 徳川家康が奥平信昌を京都所司代とし、福島正則・池田輝政・浅野幸長らを京都守備に派遣するとともに、大坂退去を条件に本領を安堵する旨の本多忠勝・井伊直政連署の書状を、黒田長政らに持たせ大坂城の毛利側に伝える。 | |
09/19 | 事件 | 小西行長が粕川谷の山中で関ヶ原の住人林蔵主の手に捕らえられる。 | |
09/19 | 一揆 | 陸奥の前和賀領主・和賀忠親らが一揆を起こす。 | |
09/20 | 軍事 | 徳川家康が大津城に入る。遅参した秀忠がこの日ようやく大津に着くが、家康から不興を買う。また、島津義弘が住吉を出発、堺から海路九州へ向かう。 | |
09/21 | 事件 | 田中吉政が伊吹山中古橋村に潜伏していた石田三成を捕らえる。 | |
09/21 | 軍事 | 加藤清正が小西行長の居城宇土城を攻略する。 | |
09/22 | 政治 | 毛利輝元が徳川家康に、大坂を退去する旨を伝える。 | |
09/22 | 軍事 | 細川忠興が丹波に入り前田玄以の亀山城を収め、次いで小野木重勝の福知山城攻めに向け出陣する。 | |
09/23 | 軍事 | 大垣城に籠もっていた福原直高が、剃髪開城して東軍に降伏する。 | |
09/23 | 事件 | 安国寺恵瓊が潜伏中の京都で捕らえられる。 | |
09/24 | 軍事 | 伊達(留守)政景が沼木に出陣、須川をはさんで上杉勢と対峙する。 | |
09/24 | 政治 | 毛利輝元が大坂城西ノ丸を退去する。 | |
09/25 | 軍事 | 伊達政宗が茂庭綱元に上杉領湯原城攻撃を指示、上杉軍不在のため地侍らは降伏する。 | |
09/27 | 政治 | 徳川家康・秀忠父子が大坂城に豊臣秀頼と会談する。 | |
09/29 | 事件 | 長宗我部盛親が兄の津野親忠を岩村霊厳寺に攻めて殺害する(日付は9/27とも)。 | |
09/29 | 軍事 | 米沢城の上杉景勝のもとに西軍の敗報が届く。 | |
09/30 | 軍事 | 近江水口城の長束正家が徳川方に城を明け渡し、正家は桜井谷の民家へ移る。 | |
10/01 | 政治 | 石田三成・小西行長・安国寺恵瓊が京都六条河原で処刑される。 | |
10/01 | 合戦 | 上杉景勝が関ヶ原の西軍敗戦により長谷堂城から撤兵、殿軍直江兼続は最上勢と壮絶な退却戦を演じる。また、九州では伊東祐兵の臣宮崎郡清武城代稲津重政が高橋元種の守る宮崎城を落とす。 | |
10/01 | 死去 | 西軍に加担した赤松則英が京都戒光寺で自害。享年不詳。 | |
10/02 | 合戦 | 黒田如水が豊後富来城を攻略する。 | |
10/02 | 死去 | 東軍に降伏した大垣城の守将福原直高が伊勢朝熊山で自害。享年不詳。 | |
10/03 | 軍事 | 島津義弘が関ヶ原より居城の大隅帖佐城に帰還する。 | |
10/03 | 死去 | 長束正家が近江桜井谷の中西孫左衛門宅で自刃。享年不詳。 | |
10/05 | 政治 | 徳川家康が小早川秀秋に備前・美作五十万石を与える。 | |
10/08 | 政治 | 最上義光が秋田実季に大森か西馬音内を攻略するよう要請する。 | |
10/10 | 政治 | 毛利輝元が徳川家康から八カ国を没収され、防長二国を与えられる。 | |
10/12 | 死去 | 九鬼嘉隆が、子の守隆からの赦免を伝える急使の到着に間に合わず答志島和具で自刃。享年59歳。 | |
10/15 | 政治 | 徳川家康が浅野幸長の軍功を賞し十三万石を加増、紀伊和歌山37万6千石を与え、清洲の福島正則を安芸・備後四十九万石に転封、代わりに四男の松平忠吉を清洲城主に任命する。また池田輝政には播磨・備前・淡路三国を与え姫路城主とする。 | |
10/17 | 政治 | 徳川家康が前田利長の軍功を賞し、山口宗永・丹羽長重の遺領を与える。前田利政は所領能登を失い浪人。 | |
10/18 | 軍事 | 宮崎郡清武城代稲津重政が日向佐土原城に迫る。 | |
10/19 | 合戦 | 鍋島直茂が立花宗茂の筑後柳河城に攻めかかる。 | |
10/20 | 合戦 | 鍋島直茂らが毛利秀包の筑後久留米城を攻め、城島に陣し立花宗茂の将小原鎮幸と三潴郡江上に戦う。 | |
10/22 | 軍事 | 小野寺義直が西馬音内則道に深堀への増援と庄内への救援を命じる。 | |
10/25 | 軍事 | 加藤清正が筑後瀬高に陣を進める。 | |
10/28 | 死去 | 播磨龍野城主赤松広通が、徳川家康の命により自害。享年39歳。 | |
11/02 | 政治 | 毛利輝元が秀元に長府三万六千石、吉川広家に岩国三万石を与える。 | |
11/03 | 政治 | 立花宗茂が加藤清正の開城勧告を受け入れ、筑後柳河城を明け渡す。 | |
11/04 | 政治 | 島津義久家臣の本多親貞が上洛し徳川家康に義久父子の謝罪を伝えるが、家康はこれを容れず追い返す。 | |
11/18 | 政治 | 徳川家康が藤堂高虎の軍功を賞し十二万石を加増、伊予半国二十万石を与える。 | |
11/18 | 死去 | 小野木重勝が丹波亀山寿仙院で自刃。享年不詳。 | |
11/28 | 誕生 | 後の尾張藩祖徳川義直が、家康の九男として生まれる。 | |
12/05 | 政治 | 細川忠興が家臣をして丹波を有馬豊氏に、丹後を京極高知に引き渡す。 | |
12/05 | 一揆 | 国主交替に反対する長宗我部旧臣らによって起こされた土佐浦戸一揆が平定される。 | |
12/13 | 政治 | 真田昌幸・幸村父子が十六人の家臣と妻子を連れ、信濃上田から高野山へ向かう。また、有馬豊氏が遠州横須賀から丹波福知山六万石に移る。 |