明智光秀の墓

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明智光秀(あけち みつひで)  1528〜1582

十兵衛、日向守。美濃土岐氏の出身とされ織田信長幕下随一の智将だったが、天正十年六月謀反を起こし本能寺に信長を、二条城に信忠を攻め滅ぼす。しかしその報を聞き急遽中国から引き返した秀吉に山崎の合戦で大敗、居城の近江坂本城へ引き返す途中に小栗栖で土民の槍にかかり落命。
写真は大津市の西教寺にある光秀と一族の墓で、他に 高野山奥の院 、岐阜県明智町の龍護寺、同美山町の桔梗塚、京都市東山区の尊勝院・亀岡市の 谷性寺(こくしょうじ) ・宮津市の盛林寺には首塚、京都市山科区には胴塚など多くの墓が現存する。法名は「秀岳宗光大禅定門(西教寺)」、「光厳院殿涼月秀天大居士神儀(龍護寺)」など。

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