高坂昌信の墓

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高坂昌信(こうさか まさのぶ) 1527〜1578

春日大隅の子で通称弾正。武田信玄の奥近習上がりの重臣で、信州小諸城代を経て海津城代となり、川中島の合戦で活躍した。「甲陽軍鑑」の原著者として知られ、その中に自分を評して「遁(に)げ弾正」と書いていることでも有名。天正六(1578)年五月、海津城で病没。
写真は長野市の明徳寺にある昌信の墓で、法名は「憲徳院玄菴道忠居士」。同寺は夏に蛙がたくさん集まって鳴くことから「蛙合戦の寺」として広く知られている。

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