十河存保の墓

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十河存保(そごう まさやす)  1554〜1586

名は「ながやす」とも読む。三好義賢の子で十河一存の養子となる。一存の跡を継いで十河城主となるが、天正十二年六月、長宗我部元親に十河城を攻略され羽柴秀吉のもとへ逃げ込む。秀吉の九州攻めの際には無理を承知で出陣し、豊後戸次川の戦いで島津家久の計略に掛かり討ち死にした。
写真は高松市十川東町にある存保の墓で、法名は「眞光院殿義賢實存禅定門」。向かって左隣には叔父で養父の一存の墓がある。

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