☆関連武将☆ 安藤守就(あんどう もりなり) ? 〜1582 美濃斎藤氏の重臣・西美濃三人衆の一人で本巣郡北方城(合渡城)主。娘は竹中半兵衛の妻。通称平左衛門、伊賀守または日向守を称す。姓は安東・伊賀、名は範俊・定治とも。龍興の時に織田信長に通じたが、天正八年に武田家内通の罪により織田家を追放された。本能寺の変の際に混乱に乗じて旧城に入るが、稲葉一鉄に攻められ敗死した。八十歳余の高齢であったと伝える。 写真は岐阜市の龍峰寺にある守就の墓で、法名は「龍峰寺殿竹巌道足大居士」。ちなみに龍峰寺の開山湖叔和尚は守就の弟である。 |