三好長慶の墓

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三好長慶(みよし ながよし)  1522〜1564

「ちょうけい」とも読むが、「ながよし」が正しい。元長の嫡男で、利長・範長・長慶の順に改名。通称孫二郎、筑前守・修理大夫を称す。父元長の討死により十一歳で家督を嗣ぎ近畿管領細川晴元の執事から台頭、摂津江口に三好宗三(政長)を討ち実権を奪う。しかし嫡子義興ら相次ぐ身内の死と松永久秀の策謀の前に失意のうちに病死。一説にはこれら一連の相次ぐ死は久秀による謀殺ともいう。
写真は大阪府八尾市の真観寺にある長慶の墓で、向かって左隣には養嗣子義継の墓がある。この他に堺市の 南宗寺 には父元長はじめ一族の墓が、また京都大徳寺聚光院と徳島県三野町の 瀧寺 にも彼の墓がある。法名は「聚光院宗進」または「聚光院殿前匠作眠室進公大禅定門」(瀧寺)。

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