大友宗麟の墓

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大友義鎮(おおとも よししげ) 1530〜1587

義鑑の子で後に宗麟を称す。異母弟塩市丸との家督争い、いわゆる「二階崩れ」を制し豊後国主となる。キリシタン大名として有名で、旧大内領の北九州一帯も支配下にするが、後に島津家との耳川の合戦では家臣の諫めを聞かず出陣して大敗。上洛して豊臣秀吉に救援を請い、豊後はかろうじて嫡男義統に与えられる形で守ったが、以後覇気を失い天正十四年五月六日に没した。享年58歳。
写真は大分県津久見市の宗麟公園にある宗麟のキリシタン墓。なお同所には宗麟の 仏墓 も存在し、市内の長泉寺には位牌が残る。法名は「瑞宝院殿前羽林次将兼左金吾休庵宗麟大居士」。他に京都市北区の大徳寺瑞峯院にも夫妻の墓がある。

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