武田信玄・勝頼の墓

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武田勝頼(たけだ かつより)  1546〜1582

武田信玄の四男で信濃高遠城主のち甲斐新府城主、母は信玄に謀殺された諏訪頼重の娘。幼名四郎、元服後諏訪氏を称すが信玄死去により家督を相続。猛将として知られたが、相次ぐ身内の離反や長篠の敗戦で武田家そのものが弱体化、織田・徳川両軍に攻め込まれ最後に頼った重臣の小山田信茂にも欺かれ、天目山の麓・田野にて妻子と共に自害した。

武田信玄(たけだ しんげん)  1521〜1573 

信虎の嫡男で名は晴信。軍政・外交すべてに優れた名君で、無敵の騎馬軍団で知られる戦国時代の巨星。惜しむらくは北隣に上杉謙信という偉大なライバルがいたため、思うように版図は拡大できなかった。上洛途中に持病の労咳が悪化し、三方ヶ原に家康を撃破したが信州駒場の陣中で病没。

写真は高野山奥の院のものだが、もちろん地元山梨県はもとより各地に墓があり、勝頼は山梨県東山梨郡大和村の景徳院・同甲府市の法泉寺・京都妙心寺玉鳳院など、信玄は甲府市の信玄公廟所・山梨県塩山市の恵林寺・愛知県設楽町の福田寺・長野県佐久市の龍霊寺・京都妙心寺玉鳳院などにもそれぞれ墓がある。法名は信玄「恵林寺殿機山玄公大居士」、勝頼「景徳院殿頼山勝公大居士」。

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