☆関連武将☆ 蒲生氏郷(がもう うじさと) 1556〜1595 近江日野城主・賢秀の子。織田家〜豊臣家に仕えた知勇兼備歴戦の名将で、後の会津九十万石余の主。織田信長からも信頼されて次女冬姫を娶る。合戦の際には鯰尾の兜をかぶり常に先頭で奮戦したという。家康嫌いで有名だったが、京で謎の急死を遂げたため、その知謀を恐れた秀吉に毒殺されたとの説もある。また教養ある武将としても知られ、茶道では「利休七哲」の一人に数えられる。 写真は滋賀県日野町の信楽院(しんぎょういん)にある氏郷の遺髪塔で、他に葬地・京都市北区の大徳寺黄梅院と会津若松市の興徳寺に墓がある。法名は「昌林院殿前参議従三位高巌忠公大禅定門」。 |