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六角義治
(ろっかく よしはる) 1545〜1612
義賢の子。名は義弼とも。通称四郎、右衛門督。永禄六年の観音寺騒動(義治の手により重臣後藤賢豊父子を殺害)により支配力を失い、重臣の進藤・蒲生氏などが起草して義治に遵守を強いたという『六角氏式目』を名義上制定した。織田信長の猛攻を支えきれず武田勝頼を頼って逃れ、後に豊臣秀吉の御伽衆を経て秀頼の弓術師範として余生を送ったという。
写真は京都府京田辺市の酬恩庵にある義治の墓。
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