松永氏の動きを記録した当時の日記に「金吾」なる人物の記載がよく登場します。さて、この人物は久秀とはどういう関係にあったのでしょうか。 |
「松永金吾」なる人物 「金吾」という称号は衛門府の唐名で、久秀の子・久通が右衛門佐に任ぜられていることから、『戦国人名辞典』などの各種辞典を始めとして、おおむね久通として捉えられている。しかし、他に「久秀の甥」などとする文献もあり、私としては何となくすっきりしない感があった。ちなみに松永久通は、永禄三年十月に右衛門大夫の署名で河内観心寺に禁制を掲げたのが史料における初出とされ、同六年閏十二月一日に従五位下右衛門佐に叙任されている。 先に姉妹サイト「嶋ノ左近」「戦国筒井氏」制作にあたっての文献調査中、『奈良県史11 大和武士』に「金吾」を久秀の甥としていたことからこれを採用したのだが、結果的にこれは誤りであったようである。 とは言え、頭から鵜呑みにして信用したというわけではなく、『多聞院日記』に見える以下の記録を傍証と捉えた上でのことであった。 「楊本・クロツカモ内ワレテ、楊本ノ衆ヨリ金吾ヲ令生害、則入夜城モ落了」(天正五年十月一日条) 「昨夜松永父子腹切自燒了、今日安土へ首四ツ上了、則諸軍勢引云々」(同年十月十一日条) 記録によると天正五年十月一日に「金吾」が楊本城(天理市)で楊本衆の手によって殺され落城しており、十日には信貴山城にて「松永父子」が自害している。また一日条には「云々」等の文字が記されておらず、記録者の多聞院英俊自身が断定している形で書かれていることがわかる。つまり、これを信ずる限り「金吾」と十一日条に見える松永父子の「子」は明らかに別人である。 むろん一級史料とされる『多聞院日記』とて内容が100%正しいとは限らない。しかし英俊は十市氏の一族であり、日記には十市後室や彼女の娘で金吾の妻である「御なへ」との交流が頻繁に見える。当然十市氏の記述に関しては他の国人衆に比べて詳細に記録されており、内容の信憑性も高い。事実、英俊は十月一日の事件の翌日に楊本城へ使いを出して彼女たちの安否を確認し、無事とわかると「無殊儀、珍重〃〃」と喜んでいる。 そういうわけで、久通は父久秀とともに信貴山城に滅んだと理解していた私は、「金吾」は久秀の子ではないと判断し、「甥」とする『奈良県史』の記述を採用したわけだが、そうすると今回矛盾する記述が多々現れてくることになった。よく考えてみれば、「理解していた」というのは先入観そのものであり、久通が父久秀とともに信貴山城に滅んだとする「確実な記録」は、現在調べた範囲では見当たらないのである。 さて、「金吾」と久通が同一人物たる決定的な記録を一つ挙げる。 「(前略) 殊昨年且被迦候をも土次へ可令納所由切〃庄下へ被申由金吾へ三目代書状認申届候。石隼迄宗智ニ持上也。三目代へ金吾返礼。 御折紙令被見候。仍春日社進官下地之儀、土次違乱之由に御折紙認進之候。言不可有異儀候。恐〃謹言。 三月十日 松永右衛門佐
三目代御房久通判 御返報」 (『二条宴乗記』元亀二年三月十日条) 三目代(興福寺の代官)から二条宴乗の言う「金吾」への書状に対し、返書に「松永右衛門佐久通」と自署しており、金吾=久通であることは明らかである。 現時点では『奈良県史11 大和武士』が金吾を久秀の甥とした経緯は不明だが、今後史料等が判明した際には改めて述べてみたい。 ※文責:Masa 12月2日最終加筆 本稿の無断転載及び引用を禁じます。 |