松永久通の没地

通説では松永久通は父久秀とともに信貴山城に滅んだとされます。しかし「金吾」が久通であるならば、『多聞院日記』の記述と矛盾が生じます。本当に久通は信貴山城で滅んだのでしょうか。

 
松永久通の没地

多聞山城跡  既述の通り、松永久秀は永禄二年の大和侵入以来、信貴山城と多聞山城の二元支配体制を敷き、当初は久通を多聞山城に在城させていた。(画像は現在の多聞山城跡)
 その後久秀は元亀二年の辰市合戦で筒井氏に大敗し、天正元年十二月二十六日には多聞山城を信長に明け渡して以来信貴山城に籠もったが、久通は父久秀に従って信貴山城に入ったのであろうか。結論を先に言うと、久通は信貴山城に詰めてはいないのだが、意外とこの点に触れている書は少ないようである。その後の久通の動きを『多聞院日記』で追ってみた。
 
「一 楊本城松右へ渡了ト、信念吉野へ逼塞之由、尤〃」(天正三年十二月十八日条)
「八日、從拂暁新賀へ下了、(中略) 一荷・タウフ十丁コフ五 松永右衛門佐殿へ、二束御なへ、(中略) 以上楊本、」(天正四年正月八日条)

 
 天正三年三月に原田直政が大和守護となってからも、四月には十市郷の三分の一が松永氏(名目は久通)に与えられており、久秀はともかく久通は信貴山城に逼塞したというわけではないようである。久通は同年七月に十市遠勝の娘「御なへ」と再婚して竜王山城(天理市)へ移っており、筒井氏派であった十市常陸介(遠長)を攻めている。そして記録に見えるように十二月には楊本城を接収し、翌年正月八日には妻の「御なへ」とともに楊本城にて多聞院英俊の来訪を受けており、天正三年末以降の生活の本拠は楊本城にあったものと考えられる。
 久秀が信長に反旗を翻して信貴山城に籠もったのは天正五年八月のことだが、信貴山城攻めの直前に当たる九月二十七日に以下の記述が見られる。
 
「廿七日、金吾知行替付、筒大へも十後へも書状遣之、」(天正五年九月廿七日条)
 
 金吾(久通)がどこへ知行替えされたか、あるいは間もなく知行替えされる予定なのかは不明だが、筒大(筒井順慶の母・大方殿)や十後(十市後室=「御なへ」の母)宛に、そのことについて英俊が書状を送っていることが読み取れる。
 この四日後の十月一日、先述した通り
 
「楊本・クロツカモ内ワレテ、楊本ノ衆ヨリ金吾ヲ令生害、則入夜城モ落了」(天正五年十月一日条)
 
 という事件が起こり、記録を信ずる限り久通は楊本城で殺されている。久通が八月以降に同城へ戻ったという記録が確認できないのが残念だが、もし楊本城へ戻っていたとすると、この事件は金吾の「知行替え」が大きな要因となっている可能性が高い。さらに十月七日には「就今度於楊本調略儀」という気になる文言も見え、十市後室は「御なへ」とともに筒井城へ移り、楊本城には筒井派の十市常陸介が残っている。どうも事件の裏には筒井順慶の影が見え隠れするのだが、それについてはここでは触れない。

 では、記録が事実で十月一日に久通が楊本城で殺されていた場合、前稿で述べた『多聞院日記』天正五年十月十一日条
 
「昨夜松永父子腹切自燒了、今日安土へ首四ツ上了、則諸軍勢引云々」
 
に見える、松永父子の「子」とは一体何者なのか。それとも十月一日条は単なる英俊の誤聞なのであろうか。
 私見ではあるが、松永久通は十月一日に楊本城で殺害されたと理解しておきたい。つまり、十月十日に父久秀とともに信貴山城に滅んだ「子」とは、久通以外の子あるいは養子(未詳)であった可能性が高いと思うのだが、傍証はない。
 この点についてはまだ調査中だが、とりあえず以上の情報を開示することは有用と判断し、ざっと述べさせて頂いた次第である。
 
※文責:Masa 2004年12月4日最終加筆 本稿の無断転載及び引用を禁じます。

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