服部半蔵と上郷(宇土)城
宇土城は上郷(かみのごう)城・鵜殿城とも呼ばれ、戦国期には西ノ郡(現愛知県蒲郡市)の国人鵜殿氏の居城であった。場所は現在の蒲郡市神ノ郷町、かなり山手へ登ったところにある。上の写真は本丸跡、右の写真は残っている土塁の一部である。
服部半蔵はその初陣とされる宇土城攻めにおいて、『寛政重修諸家譜』に「正成十六歳にして伊賀の忍びのもの六七十人を率ゐて城内に忍び入、戦功をはげます。これを賞せられて御持鎗(長七寸八分両鎬)を拝賜す」とあるのだが、正成十六歳といえば弘治三(1557)年のことで、このとき家康(当時は松平元康)はまだ今川義元の元に人質として存在し、しかも当時の宇土城主鵜殿長持は今川方に属していたことから、話が何かかみ合わない。半蔵は一体誰から槍を「拝賜した」のであろうか?
ちなみに宇土城落城は永禄五(1562)年のこととされている(永禄六年説もある)ので、仮にこの戦いが実際に行われて半蔵が活躍したとしても、落城には至っておらず、また家康の命で働いてはいないことになる。
さらに記すと、家康(当時は松平元康)は永禄三年二月、戸田三郎四郎と牧野伝蔵を近江に派遣、多羅尾光俊等甲賀二十一家の衆二百名を集めたという。ただし、これは今川方に属していた家康の戦闘要員としてである。そしてこれら甲賀衆は、桶狭間の戦いで今川義元が討たれた後も鳴海城の岡部美濃守長教の手に属し、水野藤十郎(藤九郎とも)信近を刈谷城に攻め、門に放火するなどして奮戦、遂に信近の首を挙げている。
さて今川家から独立した永禄五年三月、家康は松井左近忠次(松平康親)を大将に命じて今川方鵜殿長持の拠る上郷城を攻撃させた。忠次は城の北西名取山に陣を敷いて攻めようとするが、守りは堅くなかなか攻めきれない。そこで、忠次もまた家臣の勧めで甲賀から伴与七郎資定ら八十余名を招き、これら忍びの者を使って放火攪乱させるという夜襲をかけ、ついに城を落としたとされている。しかし、服部半蔵の名はこの記録にも見られない。
城主長持は城の北にある護摩堂を目指して敗走中に、伴資定に追い付かれて突き伏せられ、首を取られたという。また、子の藤太郎長照・藤三郎長忠兄弟は伴伯耆守資継に生け捕られ(鵜飼孫六説もある)、駿府に人質となっていた家康の妻子との交換が行われることはよく知られている。しかし、落城日時にも異説があり、城主を長照とするものもあって、現時点でははっきりと断定することはできない。
余談だが、この上郷城はみかん畑(私有地)の真ん中にあり、だいたいの場所はすぐわかるのだが、本丸跡を見つけるのには非常に苦労した(写真クリックで周辺地図にリンク)。案内板といえば、左の写真にある一つ限りである。この方向にあることは間違いないのだが、途中の曲がり角に看板がないため、何度も同じ道をぐるぐる回る羽目になってしまった。それに本丸跡へ登る道といえば、畦道よりまだ細く、草が生い茂っているため少々危険である。
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