初の上洛と箕輪落城

ここでは山内上杉家の名将長野業正の没後、遺児業盛を助けてきた上泉信綱が、箕輪城落城・業盛自刃を機に郷里を出て廻国修行に出たいきさつをご紹介します。


初の上洛と憲政の出国

 天文年間に秀綱が上洛したとする記録がある。詳しい日時は明らかでないが、その目的は新陰流の伝播弘流の為ではなく、曾祖父一色義直と一族の追善供養のためであったという。そして彼は途中小田原に立ち寄り北条氏康に新陰流の妙技を披露、感じ入った氏康や北条綱成が入門したのみならず、ここで綱成の娘を後妻として娶るのである。さらに嫡子秀胤が北条家に仕えることになり、秀綱はしばらく小田原に留まったという(「上泉家文書」による)。
 しかし、これは後の秀綱の行動を思えば、やや腑に落ちないところがある。ただ、秀胤はその後北条氏に従い、国府台合戦で戦死していることを思えば、なるほどとも思えるのだが。ともあれすでにその剣の実力は関東一円に広く知れ渡っていた秀綱だけに、氏康の人柄を自身の目で確かめたかったのかも知れない。そして、氏康はたとえそれがわかっていても、秀綱を純然たる「武芸者」として歓待するくらいの腹芸は出来る武将である。

 京に到着した秀綱は、当時の超一級知識人と初の対面をすることになる。『言継卿記』で名高い高位の公家・権大納言山科言継である。言継は秀綱と気が合ったらしく、以来たびたび彼の日記に秀綱の名が見られるようになる。また、この道中で後に神影流を創始する奥山孫次郎公重(休賀斎)や、真新陰流の祖となった小笠原源信斎長治らが秀綱の門下となったという。

 時は流れて天文二十(1551)年。まず甲斐では2月12日に武田晴信が除髪して信玄を名乗り、尾張では3月3日に織田信秀が末森城で病歿(享年42歳)、信長が家督を嗣いだ。そして3月10日、北条氏康が動いた。上野平井城の上杉憲政攻撃に向け三万騎を率いて小田原を出陣したのである。上杉憲政は長野業正・太田資正を率いて神流川で迎え撃ったが、所詮は多勢に無勢、敗走して平井城に逃げ込んだ。諸方に救援の命を飛ばすが、誰一人加勢には現れず、ついに平井城と11歳の嫡子の竜若丸をも棄てて、越後の長尾景虎を頼って落ちていった。後にこの竜若丸は、北条氏康の手により小田原で斬首されたという。


長野業正の死と箕輪落城

 越後に落ちていった憲政を快く迎えた長尾景虎は、その要請を受けてこれ以後何度も関東に出陣することになる。大胡城はまさにその渦中にあり、北条方に落ちたかと思うとまた景虎が取り戻す、といった具合であった。そしてこの上州動乱につけ込んで、侵略の意を露わにした武将がいた。甲斐の武田信玄である。しかし、その前に頑として立ちはだかったのが、箕輪城に一万余の精兵を持つ名将長野業正であった。
 業正は長尾景虎と連絡を取りつつ、信玄の東進を阻止し続けた。そして「上州の黄班」(黄班は虎の意)と呼ばれるにふさわしく、その死に至るまでついに信玄の侵入を許さなかった。このとき秀綱は業正のもとで活躍、「長野十六槍」の筆頭と讃えられる働きをするのである。

 しかし永禄四(1561)年11月22日、業正は病没した。この直前の9月には、戦国史上に名高い第四次川中島合戦が武田信玄と上杉謙信の間で行われている。長野家ではこれを隠し続けてきたが、やがて周囲の知るところとなり、満を持して信玄は出陣してきた。二万の兵で箕輪城を包囲し、信玄は総攻撃をかけた。秀綱はこの時箕輪城にあって最後まで奮戦したが、余りにも兵力が違いすぎた。やがて勇将藤井友忠も戦死、最期を悟った業正の子業盛は城門を開き、果敢に討って出た。馬場信房の陣になだれ込み、敵18騎を斬って落とした上で引き返し、辞世の句をしたためて自刃したという。享年19歳であった。

 さて秀綱はどうしたか。これには二説あり、一つは神後伊豆守・疋田文五郎らを従えて正に武田陣に突入しようとしたところ、信玄の本陣より特使穴山信君が馬を飛ばしてきたというもの。もう一つは桐生城の桐生直綱を頼って箕輪城を退去し、そこへ秀綱の居所をキャッチした信玄のもとから特使穴山信君が駆けつけてきたというものである。この稿ではそれはどちらでもよい。要は秀綱がこれを受けて武田信玄のもとへ伺候したという事実が重要なのである。


廻国修行へ

 秀綱は要請を受け信玄のもとへ伺候した。信玄は、箕輪城主長野業正の指揮下にあって数年来武田軍に煮え湯を飲ませてきた秀綱にもかかわらず、破格の厚遇をしたという。しかし彼はもはや信玄に仕官をする気はなかった。たとえ相手が北条氏康や上杉謙信であったとしても、秀綱は仕官しなかったであろう。
 彼は信玄に、仕官する気はないこと、廻国修行の旅に出て我が剣術流派を広めたいことを告げた。信玄は初め渋っていたが、秀綱の決意が固いことを知ると「他家に仕官しない」という条件と引き替えにこれを許し、秀綱はそれを約束して厚く礼を述べた。そして信玄は彼に、自分の名の一字「信」を与えて「信綱」と名乗らせたという。これは見方によると「旅立ちへの餞け」とも取れるし、「他家への楔(くさび)」とも取れるのだが、ここは名将信玄のこと、前者であると解したい。
 ここに秀綱は広く知られている「上泉伊勢守信綱」と改名し、晴れて自由の身となって神後伊豆守宗治・疋田文五郎景兼を供に従え、念願の廻国修行へと旅立つ。そして彼は信玄との約束を終生守り、二度と他家に仕官することはなかった。したがって、今後は彼を「信綱」の名で書くことにする。



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