見事「無刀取り」の難題を解決した柳生宗厳に流派の印可状を与え、二人の弟子たちとも別れ、万感の想いを胸に故郷へと向かった剣聖信綱の晩年をご紹介します。 |
「無刀取り」の完成 永禄八(1565)年4月、信綱は鈴木意伯と名乗る供一人を従えて大和柳生の郷に戻って来た。また別の門人かと思うと、そうではない。この鈴木意伯こそ、神後伊豆守宗治その人なのである。鈴木というのは彼の母方の姓という。しかしこの稿では今まで通り神後伊豆の名をもって書くことにする。 宗厳と久々に対面した信綱は、請われるままに二人きりで道場に籠もり、彼が格段の進歩を遂げたことを悟った。信綱の感激は大きかった。「もはや我らの及ぶところではない」とまで称賛し、直ちに新陰流の印可状を与えたという。 しかし翌五月、またもや悲報がもたらされた。将軍義輝が松永久秀らによって暗殺されたのである。信綱はどんな想いをしたであろう。程なく彼は京に戻り、しばらく記録が途絶えているが、京のどこかにいたようだ。そして元亀元(1570)年6月27日、今度は彼は神後伊豆を打太刀に、正親町天皇の御前で武術としては初めての天覧演武の栄に浴し、さらに従四位下武蔵守に叙せられたのである。 剣聖上泉信綱の終焉 元亀二(1571)年七月、信綱は京を去り故郷上州へと旅立つ。時に信綱64歳のことであった。そこからの足取りは不明だが、天正五(1577)年上泉の地に戻り、下総国府台合戦にて戦死した息子秀胤の13回忌の法要を行ったという記録があるという。その後彼は後妻(北条綱成の娘)との間にもうけた二人の子有綱・行綱が兵法師範をもって仕えている小田原北条家へと向かったようだ。 そして天正十(1582)年。ついに不世出の剣聖・新陰流祖上泉武蔵守信綱は、相模小田原でその前半生は波乱に明け暮れた上州の一小領主として、後半生は高名な武芸者としての生涯を閉じた。享年75歳であった(一説に天正五年正月十六日、70歳で死去ともいう)。 彼は地上から消えたが、その流派新陰流は実に多士済々の剣豪を輩出、数多の派生流派を誕生させ、その道統は現在に至るまでなお生き続けている。 弟子たちのその後 ところで、神後伊豆や疋田文五郎はその後どういう生涯を送ったのであろうか。簡単に付記しておくことにする。 【神後伊豆守宗治】 彼の没年時ははっきりしていない。一時関白豊臣秀次の兵法師範を務めたのは確かであるが、その後尾張徳川家に仕えたとも、出羽秋田佐竹家に仕えたともいう。 【疋田文五郎景兼】 彼は信綱と別れた後、丹後宮津の細川幽斎、次いで幽斎の子で豊前中津に転封された忠興に仕えた。その後肥前唐津の寺沢広高を経て、豊臣秀頼の大坂城で彼は終焉を迎える。慶長十(1605)年9月30日歿。享年79歳という。 |