根来(ねごろ)衆と津田監物

紀州根来(現和歌山県那賀郡岩出町)には1140年高野山からこの地に移った興教大師が開基した根来寺があり、僧兵を中心とした武力を持つ津田監物一族がいました。ここでは根来衆と津田監物一族に少し触れてみることにします。


根来衆とは
 写真は戦火から残った国宝・根来寺大塔
現在の根来寺  根来衆の本拠・根来寺は上にも少し書いたように、1140年に高野山からこの地へ移った興教大師覚鑁(かくばん)上人が開いた。葛城連峰の懐にある36万坪の広大な敷地に建てられた、新義真言宗三大道場の一つとして知られる名刹である。現地に足を運ぶとわかるが、複雑に入り組んだ石垣などもあり、寺というよりどこか「要塞」といった感じを受ける。

 戦国期の紀州は高野山を筆頭に、熊野三山・日前(ひのくま)宮・国懸(くにかかす)宮・根来寺等の大寺院の勢力が強かったため、守護畠山持国の力が衰えた後、紀州全体を統治する戦国大名は出現しなかった。そのため各土豪たちが惣を作って割拠するという、甲賀や伊賀と似た状況下にあった。紀北地方の根来では根来衆と呼ばれる武装集団がいたが、その中心として活動したのが津田一族である。

 さてこの根来衆、その組織はどうなっていたのかというと、大きく分けて学侶(がくりょ)方と行人(ぎょうにん)方に分かれる。学侶方は読んで字のごとく仏道に深く帰依し学問を追究することを目的とした集団であり、これに対して行人方は寺内外の雑役や防衛をその任務としていた。つまり僧兵武装集団・根来衆はこの根来寺行人方のことである。
 根来寺には杉ノ坊・岩室坊・泉識坊(せんしきぼう)などの多数の子院があり、中でも最大の勢力は前述の津田明算率いる杉ノ坊であった。しかしこれらの根来衆は一枚岩ではなく、雑賀衆とも深くまた複雑な関係があったようである。例えば泉識坊の門主は雑賀衆の重鎮・土橋平次であったり、石山合戦時にも各勢力ごとの利害に応じてあるときは織田方に、またあるときは本願寺方にと雑賀衆を含めて複雑な動きをしたため、傭兵集団として見られるようになったのであろう。

 傭兵集団としての根来衆は、1585年の秀吉の紀州攻めをもってその終焉を迎える。最後の最後まで根来衆を率いて秀吉勢に抵抗して悩ませた末、ついに同年3月21日、その大軍の前に力尽きて増田長盛に討たれた杉ノ坊照算(しょうさん)は、監物算長の二男で砲術自由斎流の祖として知られる津田自由斎その人である。


津田監物について

 この根来津田一族は、河内国交野郡津田城主で楠木正成の末裔を自称する、津田周防守正信の長男算長(かずなが)が監物丞を称して根来小倉荘に居を構えたことから起こった。なお「算長」を「さんちょう」と読む場合もある。また、この通称「津田監物」は世襲されており、算長の嫡子算正や次男照算、孫の重長も「津田監物」を称しているようだ。ところで、これには算長が杉ノ坊覚明の弟であるとする異説もあるのだが、ここは現地根来にある岩出町民俗資料館の見解を採用させていただくことにする。

 さて、津田監物算長は鉄炮の製造に成功した後、根来衆の中心的統率者として存在し、世上に名高い砲術津田流の開祖となり、永禄11(1568)年12月22日に69歳の生涯を閉じる。なお算長の弟で前述の杉ノ坊明算はこれに先立つ永禄元(1558)年に歿しているので、津田流は算長の2人の子算正と照算に引き継がれ、照算は独自の工夫をこれに加えて砲術自由斎流を興し、天正十三(1585)年の秀吉による紀州攻めまでの間、杉ノ坊ひいては根来衆全体の統率者として存在した。

 なお、砲術流派はこの津田流の後、程なく稲富祐直一夢による稲富流の出現とともに各地に順次発生してくるのだが、中でも田付兵庫助景澄の田付流、井上九十郎外記正継の外記流(井上流)、米沢藩の丸田九左衛門盛次の霞流、関八左衛門文信の関流などが著名である。



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