すさまじいまでの威力を発揮して戦国の華となった紀州の鉄炮軍団、根来衆と雑賀衆。しかし強大な権力には逆らえず、ついに1585年、秀吉の根来攻め・太田攻めによりその終焉を迎えます。ここでは、雑賀衆の終焉となった秀吉の「太田攻め」をご紹介します。 |
太田城水攻め・雑賀衆滅亡 根来寺が炎上し、根来衆が滅亡した翌日の天正十三(1585)年3月25日、秀吉は続いて太田城の攻略に軍を進めた。早速本願寺顕如を通して雑賀孫一の案内で中村一氏を勧降の使として送り込むが、雑賀衆太田党の総帥・太田左近宗正はこれを拒絶したため、秀吉勢の総攻撃が始まった。 先陣は堀秀政の三千、二陣長谷川藤五郎の三千、三陣前野甚兵衛の三千が猛攻を仕掛けたが、太田勢五千は近くの森やいたる所に鉄炮隊数百を伏せ、猛射を浴びせてこれを撃退する。さらに「新兵器」で秀吉勢に打撃を与えるのだが、面白いのでそのくだりを引用する。とりあえず「大意」を併記したが、現代語訳本などがなく私なりの解釈で書いたため、多少の文法的なミスがあってもご寛容いただきたい。 ☆『根来焼討太田責細記』 「(前略)盛ノ中ヨリ器ノ如キ者イク仙トモナク飛ヲチ、前野カ勢ノ至ル比、忽雷ノ如ク響キ一炎ノ煙出ルト早ク鉄炮ノ如ク■ト火炎出ヅ、軍勢散々ニ岩橋川ヱ我一ニ飛入込入、大将前野ガスソニ火ツキ煙ニムセビタレシヲ前野十兵衛・石田四平ニ主ヲ助テ岩橋川ニ飛入ヲ、太田勢切先ヲ揃、岸ニ上ルヲマクリ落切倒シケレバ、討ルヽ者数シラズ(後略)」 (大意:森の中から器のような物が何千ともなく飛んで来て落ち、前野勢がその地点にさしかかった頃、突然雷のような大音響とともに煙が出るやいなや、鉄炮のように火炎を吹き出した。前野勢は散々乱れて我れ先にと岩橋川へ飛び込み、大将前野甚兵衛の裾にも火がつき煙にむせんでいたところを前野十兵衛・石田四平ニがこれを助けて岩橋川に飛び込んだ。そこへ太田勢は切先を揃えて攻めかかり、岸に上る者をまくり落とし斬り倒したので、討たれる者は数知れなかった) この武器は一体何だったのであろうか。今で言う「時限発火装置」みたいなもんである。ひょっとするとこの武器は、「戦国忍者考」の項で特集した百地丹波が考案したのかも知れない。彼は伊賀を落ちて紀州根来に住んでいたと伝えられるのだから。もしそうだとすると、これは面白いのだが・・・そんなわけはないか。 ともあれ、秀吉勢は散々な目に遭い、堀・長谷川などは自慢の勇士51人が討ち取られたという。この数をよく覚えておいていただきたい。後ほどこの数が再び現れることになる。そして秀吉方は城を取り巻き、備中高松城攻めの時と同様に、水攻めにするべく準備を始めた。 3月26日夜より十六万九千二百人もの人夫を駆り集めて築堤工事を始め、4月1日から水を流し込んだという。このときも28・29日には大雨が降ってあたり一面が海のようになったということなので、秀吉にはよほど強運がついて回ったのであろう。そして4月2日、ちょっとしたハプニングがあった。 城中から朱柄の槍を持って一人の武者が船で漕ぎ出し、秀吉方の佐藤勢に単独で突きかかり、縦横無尽に暴れ回った者が居た。この人物、朝比奈摩仙名(ませんな)という尼法師、つまり女性だったのである。残念ながら彼女は田中久兵衛に生け捕られて秀吉の前に連れて行かれるのだが、秀吉は感心して彼女を許し、城に帰らせたとある。 さてこの頃、雑賀城に立てこもっていた面々も、秀吉方の桑山重晴や小出源左衛門に一歩も譲らず善戦していたが、ここへ貝塚の顕如上人からの「城を明け渡せば速やかに所領を下すという秀吉の厳命である」という旨の書状が届き、守将の雑賀孫六は再拝してこれを受け、城を桑山に明け渡した。これにより、戦後程なく孫六は秀吉から平井二千石の地を与えられている。中州や関の城もこれを受けて開城したが、吹上城の土橋平次・平左衛門らはこれに従わず、激戦の末についに敗れて自刃した。 いよいよ戦いも大詰め、太田左近も「水干し」にされて兵糧も尽き、島田新三郎に命じて蜂須賀正勝に自分の命と引き替えに城兵の助命を嘆願した。秀吉はこれを認め、引き替えに城将の主だつ者51人の首を要求した。そう、緒戦で散った秀吉方の勇士と同数の首である。 左近は城将らと共に切腹、ついにここに至って、頑強に抵抗した雑賀衆もことごとく降伏するか滅亡した。前出の『根来焼討太田責細記』の最後は、秀吉をあざけったとも受け取れる(?)ような文で締めくくられているので、これも引用してこの稿の終わりとさせていただくことにする。 「其夜ハ秀吉公岡平太夫殿館ニ御宿リ有テ明ル日和哥ノ浦ニ遊覧シ給フ、誠ニ目出度御大将也」 |