湯川衆の終焉〜秀吉の紀州統一〜

根来衆と雑賀衆を滅ぼした秀吉は紀州統一を目指して湯川衆らにも矛先を向け、ついに紀州を統一します。ここでは、あまり諸書に採り上げられていない湯川衆の悲劇的な終焉をご紹介します。


南征軍進発・湯川衆滅亡

 一般にはあまり採り上げられることのない秀吉と湯川衆との戦い。太田城開城までの秀吉の紀州攻めをもう一度日付を追って見ていくことにする。天正十三年のことである。

3月21日、秀吉が岸和田城に入り、千石堀城を落とす。畠中城の紀州勢も退却。
3月22日、秀吉勢が泉州積善寺城を開城させる。
3月23日、中村一氏が泉州沢城を落とし、城将的場源四郎は紀伊に退去。
3月24日、秀吉勢が根来寺を攻め落とし、これを焼き払う。
3月25日、鈴木孫一・中村一氏を太田城に派遣、太田宗正は降伏勧告を拒否。
3月26日、秀吉が太田城を水攻めにするため、桑山重晴を奉行に築堤を開始。
4月01日、周囲を堤で囲んだ太田城に水を引き入れる。
4月07日、紀伊粉河から高野山に使を派遣し降伏を促す一方、南征軍を発す。
4月10日、高野山の木食応其上人が老僧を伴って陣中の羽柴秀吉に対面する。
4月22日、蜂須賀正勝・前野長康を紀州太田城へ向かわせ降伏を促す。
4月25日、太田城落城。城将太田左近宗正ら51人切腹。(人数は諸説あり)

 これを見ていただけばわかる通り、秀吉は太田城攻め最中の4月7日、湯川衆らの討伐に向け南征軍を発した。他の地侍衆たちが降伏したり四散したりする中、直春は熊野衆の山本主膳らとともに敢然とこれに立ち向かう。しかし、秀吉勢は水陸から大軍で押し寄せたため直春は亀山城を焼き払って熊野へ奔り、潮見峠に拠って防戦に務めた。
 向かってきたのは仙石・藤堂・尾藤氏らの千五百騎だったが、険阻な地形と直春らの奮戦により、それ以上進めず釘付けとなった秀吉勢の旗色はやや悪く、戦いは膠着状態となり開戦から三ヶ月が経過した。
 しびれを切らした秀吉はついに直春・主膳の本領安堵を条件に和議を提案、さすがに戦い疲れた直春らはこれを受け入れた。これにより一旦秀吉勢は撤退し、ようやく南紀に静けさが戻ってきた・・・かに見えた。

 しかし、翌天正十四年、思わぬ落とし穴が待ち受けていた。同年七月に直春・主膳は秀吉方に大和にて誘殺され、その所領はすべて秀吉の公領とされてしまったのである。直春の遺臣らは、当然の事ながらこの「だまし討ち」に怒り、団結して秀吉方の代官杉若越前守が入城していた泊城を襲うが、逆に敗れて皆殺しにされてしまった。
 なお、この後しばらく杉若越前守は泊城にて南紀を治め、天正十八年になって上野山城へその拠点を移したという。(直春らの和議受け入れは天正十四年二月とする説もある)

 ここに中南紀の反秀吉勢力は一掃され、紀州全域が秀吉の手によって統一された。



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