おお、今度はわしの番か。ではまずはじめに皆に一つ忠告しておくが、長生きしたいと思ったら、くれぐれも酒に呑まれてはならんぞ。ん? もうわかったってか? 話は最後まで聞くもんじゃ。ひょっとしたら別人かもしれんでの。 わしが生まれたのは享禄年間じゃった。わしの親父殿は猛将と言って良い武将でな、年中戦いに明け暮れていたそうな。で、わしには一人兄者がおっての、その兄者が親父殿から家督を譲られて当主となったのは、わしが6歳の時の暑い日じゃった。 ただ兄者は病気がちでな、家臣達が好き勝手なことをしてもよう取りまとめんでの。次第に家中がバラバラになっていったんじゃ。そのうちわしをかついで国主にという動きが出てきてな、結局は兄者と戦う羽目になってしもうての。勝ちはしたからこうやって歴史に大きく残ったのじゃが、あまり後味の良いものではなかったのう・・・。 あ、そうそう。わしの幼名を猿松とか書いておる書物もあるようじゃが、猿と言えば上方で面白いこともあったのう。このサイトのどこかに書いてあるので探してみたらよかろう。 それと、わしの生涯を追えばわかるが、あっちへ行きこっちへ行きと忙しい日々が続いたのう。それもこれもあいつのせいじゃ。こやつ、敵ながらあっぱれでの、戦は強いし謀略も抜け目がなく、まさに名将と呼べる人物じゃった。家臣もきつう強うての、「四臣」とかいうておったようじゃが、さすがに皆ひとかどの強者よ。うちの和泉や近江にも匹敵する連中じゃ。 あやつはわしより先に逝きよったが、食事中にそれを知らされたわしは、思わず箸を取り落としてしもうたわい。あやつと仲良うできておったら、まず歴史は変わっておったこと請け合いじゃ。 あやつとの激戦は今もよう覚えておるぞ。弟は討ち取ったんじゃが、後半は巻き返されてのう。結局は痛み分けじゃった。あと一歩の所でのう・・・、ま、今となっては繰り言じゃがな。 でもな、わしにも胸張って言えんことも多々ある。そのうちの一つはの、国の仕置きを投げ出して一度逃げ出したことがあったんじゃ。弘治二年だったか、もう何もかもいやになってな。その時は家老の越前に説得されて思い返したんじゃが、今になって思えば、そのまま出家遁世してしまった方が気楽で良かったかのう。このとき世話をかけた越前も、有能な人物じゃったが永禄七年に事故で亡くなってしもうたわい。 それともう一つ、わしの邪推で有能な家臣を死なせてしもうてな。ことは馬の売買に絡むんじゃが、確かにわしに黙って売買しよったのはどうかと思うが、いくら相手が相手とは言え、わしももう少し冷静になって考えてみるべきじゃった。かの尾張の若造に一杯食わされたかもしれんのう。ま、その若造もわしと同じ歳で逝きよったから、お合いこじゃがな。 それに、これは致命的なことじゃが、わしには子がなかったんじゃ。しかも跡嗣ぎを決める間もなくあっという間に世を去ったもんでの、わしの死後に家中を二分する大騒動が起きてしもうてな。結局は越前の子が後を嗣いだのじゃが、左京大夫殿には申し訳ないことになってしもうて・・・。 ん? 紙面が足りん? 嘘言え。A4一枚じゃあるまいし、字数制限などなかろうが。ま、よいわ、入門編ということで一言。わしは不犯の聖将とか戦国の神将とまで言われた戦上手じゃ。お、ちとサービスし過ぎたかの? ではさらばじゃ。 |
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