ふむ、ようやくわしの出番じゃな。わしは大名ではないが、その所領と言い、城と言い、大名と言うてもおかしくない身代じゃった。では、まいろうかの。 わしは、弘治年間の生まれでな、わしが御屋形様に仕えたのは天正三年、十九の時じゃった。その時御屋形様はまだわずか九歳になられたばかりでの、わしはさる宿老殿の推挙により御屋形様のお父上に認められてな、その教育係とも言える大役を仰せつかったのじゃよ。 御屋形様の若いときは、どちらかと言うと引っ込み思案での、弟殿を手にかけざるを得なくなるなど、決して幸せとは言えぬ境遇じゃった。しかし後にあのような立派なお方になられるとは、嬉しい限りじゃわい。御屋形様は、なぜかわしとウマが合うてな、わしの言うことは実によう聞いて下さった。主従と言うより親友のようじゃったなあ。ただ、ちと生まれられたのが遅かったのう。あと十年早ければ、きっと歴史は変わっておったぞよ。ま、それはともかく、わしも一生懸命御屋形様に献策してな、おかげで後に名参謀とか名軍師とか言われるようになったわい。 天正十三〜十七年はあちこちで戦があってな、わしも作戦を練ったり先陣を務めたりと、よう働いたわい。それより、御屋形様の一番の危機はな、何と言っても天正十八年のことよ。当時日の出の勢いの御仁が、その最終仕上げの戦を起こしたときじゃった。御屋形様にも参陣要請が来ての、わしは家中では「一家」と呼ばれる家格じゃったが、「一門」に属すさるお方が反対されての。国元が落ち着かん事と、何より御屋形様が乗り気でのうて腰を上げられんかったのじゃが、わしの説得でようやく参陣なされたんじゃよ。御屋形様は腹をくくって死に装束まで用意されての。さる御仁は腹を立てはしたが、御屋形様の人物を認めたのじゃろうなあ。無事に帰ってこられたわい。しかし、危ないところじゃったぞ、御屋形様は首筋に刃を当てられたというでのう。 わしは大坂の陣終結後、程なく病により世を去ったんじゃが、倅がこの戦では頑張りよってな。敵方の先鋒大将を破って「鬼」なぞと呼ばれる活躍をしよったわい。ただ勇にはやっての、徒歩で敵兵に組みついて四、五人の首を取ったそうじゃが、これは大将たる者の慎むべき所行、ちと叱りつけてやったぞな。ただ親父のわしが言うのも何じゃがな、あやつはなかなか男前での、とても鬼には見えんよのう。あ、そうそう、これは有名な話じゃが、倅の妻はその戦の際の敵将の娘なんじゃよ。敵将の名を言うとすぐわかるので、ここは伏せるがな。 おう、早いもんじゃのう。もうしまいか。では最後に一つ。わしの所領は表向きは一万六千石じゃが、実収は十万石ほどもあったと言われておるぞ。ではこれにておいとまするかの。 |
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