おお、上級編もわしで三番目じゃな。わしもご当地の方々を除いては一筋縄ではいかぬじゃろうのう。有名といえば有名じゃが、中央での活躍はしておらんからな。では始めようかの。 わしは、大永年間の生まれじゃ。わしの家は、とある地方の名族の流れより分かれる家での、わしで八代目になるわい。一応ある大名の家臣ではあったが、ちと別格扱いされておったんじゃ。最盛期のわしの勢力はというと、本・支城合わせて三十三拠点、約三〜四万石ほどもあったかのう。 わしは戦国武将じゃが、騎馬や刀槍術を誇るタイプではなかったのう。じゃあどんなタイプかだと? そうじゃな、良く言えば古代中国蜀の国の諸葛亮孔明のようなもんかの。何、それは言い過ぎだと? まあよいではないか、堅いことを言うてくれるな。ただ、わしが歴史に登場するのは後にも先にも、ある戦いでの活躍一度きりと言うても過言でないでの。その戦いでは我ながら見事に働いたもんじゃよ。まあ聞いて下され。 あれは天正もほぼ終わりの頃じゃったかな。正月早々突然我らの領内にさる大名が攻め掛けて来おってな、わしはこやつは虫が好かんでの、周りの国人衆がこの大名に次々と籠絡される中、堂々と抗戦してやったんじゃよ。ただ、この大名、若い割にはかなりのやり手じゃったぞ。ま、この大名が直接攻め込んできたわけではないがの。あ、そうそう、敵の大将はわしと同じ官称を名乗っておったなあ。 さて、戦は二月に入って動き出したわい。敵は二手に分かれて攻めてきたんじゃが、別働隊の将はわしの娘婿じゃった。少し複雑な気分じゃったが、戦は戦じゃからのう。わしは巧妙な戦術を用いて敵を分断包囲することに成功したんじゃ。我が方の本城には下総殿が籠もって防戦していたんじゃが、彼の頑張りも大きかったのう。それに天候にも助けられたわい。大雪での。これじゃ地の利を占める我らに比べて遠征軍は不利なこと、言うまでもないわ。 この後、別働隊も完全に袋の鼠としたんじゃが、その大将が娘婿じゃろう、殺すわけにはいかんわな。相模などは一人残らず皆殺しにするといきまいておったが、わしのはからいで逃がしてやったわい。詳細は省くが、結局はこの戦で敵大将を捕虜にしての。これを聞いたかの大名は切歯扼腕して悔しがったそうな。彼の一番の腹心に送った書状に「無念言句を絶す」とまで書いたと聞いておるぞ。 ただな、わしの主家もやがてこの大名に降伏してしまうのじゃが、彼はわしの処刑を主張して止まなんだそうじゃ。でもわしは生き延びたぞ。何故かって? 娘婿殿が助命嘆願に奔走してくれたそうな。やはり恩は売っておくもんじゃのう、思わぬところで命拾いしたわい。わしも、もう少し戦の駆け引きをしたかったのじゃが、肝心の戦が絶えてしもうてな。ま、七十七まで生きられたのじゃから、別に不足はないのじゃがな。 おや、もう終わりか。わしもこれ以上ヒントは出さんので、じっくり考えてみなされ。ではまたな。 |
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