全国に無数にと言って良いほど存在する城跡の中でも、兵庫県朝来(あさご)市にある但馬(たじま)竹田城は私の中では5本の指に入る城です。 日本百名城の一つにも選ばれている竹田城の見所は、圧倒的な存在感のある石垣が見事に残る城の佇まいと、天守台からの眺望が素晴らしいこと。運良く早朝の雲海に出会えたら、眼前に広がるあまりにも幻想的な光景に、言葉を失うと言っても過言ではありません。 場所はJR竹田駅の裏手(西)にある標高353.7mの山で、電車で行くにしろ車で行くにしろ、まず迷うことはありません。そして、中腹にある駐車場(無料)まで車で行けるのも便利です。もちろんそこから15〜20分程は歩かないといけませんが、麓から登るルートに比べて格段に楽です。 ただ、山の特徴である、強風と突然の天候の急変には要注意。防水機能のある服装やカメラバッグは必需品です。 |
竹田城は嘉吉年間(1441〜1443)に但馬の守護大名・山名宗全(持豊)が基礎を築いたとされ、以後は垣屋氏・田結庄(たいのしょう)氏・八木氏とともに山名四天王の一人として知られる太田垣氏の居城となりました。 天正八年(1580)、織田信長の重臣で中国方面司令官・羽柴秀吉の但馬征伐により、竹田城は秀吉の弟・秀長に攻められると、城主の太田垣輝延はさしたる抵抗もせず降伏開城しました。 その後秀吉麾下の将・桑山重晴を経て斎村政広(赤松広英)が城主となります。 慶長五年(1600)、関ケ原の戦いが起こると政広は西軍に加担、福知山城主・小野木重勝(公郷)らとともに細川幽斎の籠もる丹後田辺城(京都府舞鶴市)攻めに出陣します。しかし、超一流の文化人であった幽斎を失うことを恐れた後陽成天皇の勅命により和議が成ったため、城の囲みを解いて一旦竹田城に戻りました。そして、ここで九月十五日に西軍が関ケ原で敗れたことを知り謹慎します。 東軍の因幡鹿野城主・亀井茲矩はかねてから政広と親交がありました。 茲矩は徳川家康から、上杉征伐に従軍していながら途中で西軍に転じた宮部長房の居城である鳥取城攻めを命じられると、政広に「一緒に出陣すれば西軍加担の罪を問われないように計らう」と持ちかけました。 茲矩の言葉を信じた政広は、ここに東軍に寝返って鳥取城攻めに出陣します。 政広は奮戦しますが、その際に作戦にせよ失火にせよ城下を焼いてしまったことが後になって家康の怒りに触れ、戦後切腹を命じられました。一方の当事者である茲矩は戦後加増されているため、自らの作戦の失敗を政広のせいにしたのではないかとも言われます。 今となっては真相を知る術はありませんが、こうして政広は鳥取の真教寺において自刃して果てました。享年39という若さでした。 JR竹田駅裏手の通称「寺町通り」にある法樹寺には、最後の竹田城主となった政広の墓があります。法名は「乗林院殿可翁松雲大居士」。 同時に城は廃城となったため、近江穴太衆の手により積み上げられた見事な石垣は、当時の姿をほぼそのまま今に伝えています。 |