![]() 日本百名城の一つにも選ばれている竹田城の見所は、圧倒的な存在感のある石垣が見事に残る城の佇まいと、天守台からの眺望が素晴らしいこと。運良く早朝の雲海に出会えたら、眼前に広がるあまりにも幻想的な光景に、言葉を失うと言っても過言ではありません。 場所はJR竹田駅の裏手(西)にある標高353.7mの山で、電車で行くにしろ車で行くにしろ、まず迷うことはありません。そして、中腹にある駐車場(無料)まで車で行けるのも便利です。もちろんそこから15〜20分程は歩かないといけませんが、麓から登るルートに比べて格段に楽です。 ただ、山の特徴である、強風と突然の天候の急変には要注意。防水機能のある服装やカメラバッグは必需品です。 |
![]() 天正八年(1580)、織田信長の重臣で中国方面司令官・羽柴秀吉の但馬征伐により、竹田城は秀吉の弟・秀長に攻められると、城主の太田垣輝延はさしたる抵抗もせず降伏開城しました。 その後秀吉麾下の将・桑山重晴を経て斎村政広(赤松広英)が城主となります。 ![]() ![]() 茲矩は徳川家康から、上杉征伐に従軍していながら途中で西軍に転じた宮部長房の居城である鳥取城攻めを命じられると、政広に「一緒に出陣すれば西軍加担の罪を問われないように計らう」と持ちかけました。 茲矩の言葉を信じた政広は、ここに東軍に寝返って鳥取城攻めに出陣します。 ![]() 今となっては真相を知る術はありませんが、こうして政広は鳥取の真教寺において自刃して果てました。享年39という若さでした。 JR竹田駅裏手の通称「寺町通り」にある法樹寺には、最後の竹田城主となった政広の墓があります。法名は「乗林院殿可翁松雲大居士」。 同時に城は廃城となったため、近江穴太衆の手により積み上げられた見事な石垣は、当時の姿をほぼそのまま今に伝えています。 |