島左近関連人物列伝2

ここでは、左近に関わる人物を列伝形式でご紹介します。

−−−《 近江・後半生編 》−−−

石田正澄(いしだ まさずみ)    ? 〜1600

三成の兄で豊臣秀吉の家臣。通称弥三、のち木工頭。和泉堺の町奉行職などを務め、近江・河内で二万五千石を領す。父正継とともに主に内政面で三成を助ける。関ヶ原の際には近江愛知川に関を設け東征に向かう諸将を阻止、大坂に集結させた。父正継らと佐和山城を守るが東軍に攻め落とされ、城に放火して自刃した。

石田正継(いしだ まさつぐ)    ? 〜1600

三成の父で豊臣秀吉の家臣、隠岐守。通称は藤左右衛門・佐(左)吾左衛門・太郎右衛門など諸説あり、近江で三万石を領したとされる。治政に優れ三成不在時の庶政を執り、また教養豊かな才人としても知られる。関ヶ原の際には一族をあげて佐和山城を守るが東軍に攻め落とされ、城に放火して自刃した。

石田三成(いしだ みつなり)  1560〜1600

正継の子。通称佐吉、天正十三年従五位下治部少輔に叙任。豊臣家五奉行の一人。近江国石田村出身で豊臣秀吉側近の吏僚から台頭、秀次失脚後は近江佐和山城主となり十九万四千石を領した。秀吉没後の慶長四年閏三月、前田利家が没すと朝鮮役で恨みを抱いた福島正則らに襲われ、仲裁に入った家康の裁断で佐和山城に隠居した。関ヶ原では西軍の実質的指揮官となり徳川家康と戦うが、連合軍の足並みが揃わず小早川秀秋らの裏切りにも遭って大敗。脱出行中に田中吉政の手に捕らえられ、十月一日に小西行長・安国寺恵瓊らと京都六条河原にて斬首された。法名「江東院正岫因公大禅定門」、墓所は京都大徳寺三玄院。

大谷吉継(おおたに よしつぐ)  1559〜1600

豊臣秀吉家臣。近江伊香郡の出自で六角氏の臣大谷吉房の子と伝えられる(異説あり)。通称は紀之介、秀吉の近侍から頭角を現し主に内政面で活躍、天正十三年に従五位下刑部少輔に叙任。越前敦賀五万石を領し、娘は真田幸村の妻。関ヶ原合戦の際に名を吉隆と改め親友石田三成に身を投じるが、隣に陣した小早川秀秋と脇坂安治ら四将の裏切りに遭い、奮戦ののち自刃。持病のハンセン氏病のため盲目であったと伝えられ、関ヶ原町宮上には戦後藤堂家によって建てられた立派な墓が残る。地味ながらも三成との義に生き義に殉じた悲運の名将として知られる。

大山伯耆(おおやま ほうき)  生没年不詳

石田三成家臣。元は豊臣秀次の家臣で、黄母衣衆十三人の一人に抜擢された猛者。『角力読本国技』では秀吉の島津征伐の際、勝山城で相撲に興じた際に石田家中から選ばれ、天野源右衛門・渡辺勘兵衛・塙団右衛門らとともに技を競ったとされる。三成の佐和山蟄居時は佐和山城から三成の警固に出向いた。ただし『砕玉話』には左近の家士としてその名が見え、のち石田三成の直参となり左近に劣らぬ武将になったと紹介する。

小野木重勝(おのぎ しげかつ)   ? 〜1600

豊臣秀吉家臣で通称清次郎、天正十三年に従五位下縫殿介に叙任。名は重次・公郷・公知などとも記録に見える。妻は島左近の娘。秀吉の下で黄母衣・大母衣衆を務め各地を転戦、戦功により丹波福知山城主となる。関ヶ原の際には西軍に属し、細川幽斎の拠る丹後田辺城を包囲攻撃して開城させるが、西軍の敗戦により撤退。程なく居城福知山城を細川忠興に攻められ開城、井伊直政・前田茂勝を通じて助命を請うが許されず、十一月十八日に丹波亀山城下の浄土寺嘉仙庵(現寿仙院)において自刃。首は京都三条河原に曝されたという。寿仙院には墓がある。

加藤清正(かとう きよまさ)  1562〜1611

幼名虎之助、秀吉子飼いの勇将で賤ヶ岳七本槍の一人。「虎退治」など数々の逸話を残す。築城の名人としても知られ、後に居城となった肥後熊本城は難攻不落の名城として特に有名。大坂の陣の前に豊臣秀頼が二条城で家康と会見した際に警護役として随行、帰国直後に謎の急死。ために毒殺説が囁かれたが詳細は不明。左近の紹介により柳生兵庫助を熱望し、表高五百石・内実三千石の客将として招いた逸話が残る。慶長十六年六月二十四日、熊本城で病没。墓所は熊本市の本妙寺。

加藤浄与(かとう じょうよ)  生没年不詳

京都西陣の呉服屋で、屋号は武蔵屋伊兵衛。元は加藤数馬と名乗り仙台伊達家の士であったが、叔父に関わる不祥事から主家を致仕、京都で呉服屋を始めたという。左近とは遠縁に当たるとされ、関ヶ原合戦後にはその娘・珠を養育したという。

蒲生郷舎(がもう さといえ)  生没年不詳

前名は坂源兵衛、蒲生郷成の弟。もと蒲生氏郷・秀行に仕え、秀行の宇都宮転封の際に浪人し、石田三成に仕える。関ヶ原合戦関連の軍記類には戦死とするものがあるが、これは蒲生備中頼郷と混同した可能性が高い。関ヶ原合戦の後、秀行の会津復領の際に帰参し、秀行・忠郷・忠知に仕えたという。のち蒲生忠郷から一万五千石を受けるが町野幸和と争い浪人し、町野失脚後に五千石で再び帰参。忠知の松山移封に従い三千石を拝領するが、寛永七年に暇を出されたという。

蒲生頼郷(がもう よりさと)    ? 〜1600

石田三成家臣。通称備中、諱は真令(さねのり)とも。前名横山喜内、のち蒲生喜内とも称す。初め近江六角氏のち蒲生氏郷に仕えて会津塩川城主となるが、秀行の宇都宮転封の際に蒲生家を辞し、石田三成に招かれて仕える。関ヶ原合戦では島左近とともに石田勢の先鋒を務めて奮戦したが、子の大膳共々戦死した。同合戦で一部の書に伝えられる蒲生郷舎の活躍は、郷舎ではなくこの頼郷の事績(逸話)の誤伝と見られる。

菅 正利(かん まさとし)   1567〜1625

黒田孝高・長政家臣で黒田二十四将の一人。通称六之助、和泉守。名は政利・忠利とも。朝鮮役にて黒田長政が虎狩りをした際、備前吉次の名刀で飛びかかってきた虎を一刀のもとに切り伏せたという逸話がある。関ヶ原合戦時には丸山に布陣した東軍右翼先鋒黒田長政の下で五十挺の鉄砲隊を率い、同じく鉄炮頭の白石庄兵衛らとともに西軍石田三成勢と激闘を演じた。その際石田方の先鋒左翼に陣した左近隊の横合いに回り込んで銃撃、左近を負傷させたと伝えられる。

藤堂良政(とうどう よしまさ) 1559〜1600

通称玄蕃。はじめ豊臣秀次に仕え、秀次失脚後に藤堂高虎から同姓の誼をもって伊予に招かれ仕える。関ヶ原合戦時には高虎から留守を命じられたが、密かに後を追いかけて参戦したという。関ヶ原合戦関連の諸書では九月十五日の本戦で左近の子新吉信勝と戦い、組み伏せられて討ち取られたとされる。

戸川逵安(とがわ みちやす)  1567〜1627

肥後守。宇喜多家の重臣秀安の子で天正十年に家督を嗣ぐ。宇喜多秀家に仕え侍大将を務めたが、慶長四年のいわゆる宇喜多騒動で主家を去り、関ヶ原合戦時には浪人として東軍に参加、加藤嘉明のもとで陣借りして奮戦したという(異説あり)。合渡川の戦いで一番槍の功を挙げたとされ、戦後に備中庭瀬二万九千石余を拝領、同藩初代藩主となる。戸川家の伝承では本戦で島左近を討ち取ったとし、左近着用と伝える鎧兜が同家に保存されていた。鎧は焼失したが兜は久能山東照宮博物館に、忍緒が戸川家記念館に現存する。

前野忠康(まえのただやす)  生没年不詳

石田三成家臣。舞兵庫の通称で有名。忠勝の子で妻は前野将右衛門長康の娘とされ、前野兵庫(介)・舞野兵庫などとも記録に見える。豊臣秀次に仕え黄母衣衆十三人の一人として活躍、文禄三年の秀次失脚時には石田三成の計らいで伏見屋敷に匿われて難を逃れたという。その後一旦浪人するが後に三成から招かれて家臣となり、三成の佐和山蟄居時は佐和山城から警固に出向いた。関ヶ原の前哨戦・福束城の戦いでは大垣城から救援に向かい、合渡川の戦いでは一隊を指揮して黒田長政・田中吉政勢と戦うが、ともに奮闘及ばず敗れる。関ヶ原合戦以降の消息は不明。

柳生利厳(やぎゅう としとし)  1579〜1650

宗厳の孫で通称兵庫助(介)。初め伊予守長厳を名乗り、晩年は如雲斎と号した。祖父石舟斎宗厳から柳生新陰流の正統を受け継ぎ、後に尾張徳川家の剣術指南役となる。その技量は宗矩をも凌いだと言われ、歴代の柳生一族中でも屈指の剣豪として知られる。側室は島左近の娘・珠で、珠との間に出来た子の新六は後の連也斎厳包。慶安三年正月十六日、京都妙心寺内柳庵にて没した。法名「春光院殿閑叟如雲居士」、墓は同寺塔頭麟祥院。

柳生宗矩(やぎゅう むねのり)  1571〜1646

徳川家康・秀忠・家光の家臣。宗厳の五男で初名は宗頼、通称は又右衛門、のち但馬守。剣術将軍秀忠・家光の剣術指南役として抜擢され、家光のもとでは惣(大)目付の重職に就き諸大名を監視、ついに大和柳生一万二千五百石の大名にまで昇進した江戸柳生家の祖。関ヶ原合戦前に徳川家康の命を受け、情報収集のため左近のもとへ行き雑談した逸話が残っている。正保三年三月二十六日、江戸日ヶ窪の別墅で没す。享年七十六歳、法名は「西江院殿前但州太守贈従四位大通宗活居士」。墓は下谷広徳寺(現練馬区桜台)


2002年4月17日記・禁無断転載
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