石田三成のもとへ(2)

左近と石田三成の関係を考えていくと、三成の佐和山領有の時期が大きく影響してきます。そして左近夫妻が佐和山に所在する記録(『多聞院日記』天正二十年四月十日条)の時点では、三成はまだ佐和山城主ではなかったのです。


石田三成のもとへ

 ここで左近の伊賀退去と石田家仕官の時期や状況について、諸説を総合してざっと整理してみると以下のようになる。

 1.筒井家を去りそのまま佐和山へ赴き三成に仕えた。(『新編伊賀地誌』『伊乱記』)
 2.筒井家を去り豊臣秀長・秀保に仕えた後、秀保夭逝により三成に仕えた。(『武家事紀』)
 3.筒井家を去り一旦浪人した後、三成に仕えた。(『和州諸将軍傳』等)

 それぞれの時期について『多聞院日記』の記述と併せて考えると、上記1には天正年間説と慶長元年説があるが、左近夫妻は天正二十(文禄元)年五月の時点ですでに佐和山に居住していることから、慶長元年説の方は明らかに誤りである。
 上記2において、秀保が大和十津川で不慮の死(病死とも)を遂げたのは文禄三年四月十六日のことであり、これも上記理由により時期が合わない。
 上記3の遊居(隠居)の場所としては南都持寶院説と近江高宮説などがあるが、先に述べた通り左近には浪人する理由は見当たらない。強いて考えるとすれば、南都持寶院に一時的に住んでいたことの誤伝とするくらいであろうか。ただ『奈良坊目拙解』には、左近は伊賀を去った後南都に退去、秀長に仕え椿井山に城を構えて一万石を拝領し、石田三成が一万石を合力した(『大和武家旧記』)とする説が紹介されており、参考までにここに掲げる。

 消去法で考えていくと、可能性として考えられるのは「天正年間に筒井家を去りそのまま佐和山へ赴き三成に仕えた」あるいは「筒井家を去り一旦南都持寶院に住んだ後、三成に仕えた」ということになるが、実はこの「仕えた」というのが疑問なのである。なぜなら、三成が江北四郡を領する佐和山城主として入部するのは文禄四年七月のことだからである。


石田三成の佐和山領有

 さて、美談として広く知られている「石田三成が水口四万石時代、家禄を折半して二万石(一万五千石とも)で左近を召し抱えた」という逸話だが、これは史実としてはやはり受け入れにくい。水口城には天正十三年七月に中村一氏が入っており、その後三成が城主を務めた記録はない。左近が伊賀へ移ったのは天正十三年八月のことで、この時点ですでに水口城主は中村一氏なのである。

 三成が初めて城地を与えられたのは水口城四万石とされているが、その時期についてはおそらく天正十一年の賤ヶ岳合戦(四月二十四日に柴田勝家自刃)の直後あたりと思われる。この戦いで一番槍の栄誉に浴した福島正則が、秀吉から六月五日付で感状を兼ねた五千石の宛行状を与えられているが(『福島文書』)、三成もこの戦いで「七本槍」の面々に次ぐ戦功を挙げたとされていることから、正則らと同時かさほど遠くない時期に知行が与えられたと考えられる。ただ直接の記録としては『関ヶ原軍記大成』に「天正の末」との記載が見られるに留まり、詳しくは判明していない。上記の通り水口城は天正十三年の中村一氏入封に続き、同十八年には増田長盛、文禄四年には長束正家と引き継がれていることから、文意を多少拡大解釈しても三成が「天正の末」に水口城主であったとは考えられない。
 さらに知行石高についても四万石は明らかに多すぎる。戦功筆頭の福島正則でさえ五千石、加藤清正も後に五千石を与えられるが、当初は三千石であった。いくら三成が秀吉のお気に入りであったとしても、いきなり四万石も与えられるはずはなく、翌年の小牧・長久手合戦後に加増されたとしても、中村一氏入封までに四万石を領したとはとても思えない。

 三成は天正十九年四月二十七日、近江から美濃にかけて豊臣家の蔵入地約四万五千石が決定された際にその代官となっているが、近江犬上郡に二万二千六百石余、坂田郡に一万五千石余と代官地の大半が佐和山城周辺に集中している。加えて『喜連川文書』の伝馬負担の記録などから、この頃には三成は佐和山城を職務遂行の拠点としていたと見て良い(岩沢愿彦氏「石田三成の近江佐和山領有」)。つまり豊臣家の「佐和山城代」として存在したわけで、城主としての佐和山領有は豊臣秀次処断後の文禄四年のことである。
 なお、上記代官就任直後の五月三日に三成が美濃北方(現岐阜県本巣郡北方町)・末森村(同安八郡神戸町)・松尾村(同不破郡関ヶ原町)で北畠助太夫なる人物に所領を与えた記録があり(『岐阜県史』所収「谷森建男氏所蔵文書」)、当時三成の所領が美濃にあったことが判明している(以上伊藤真昭氏の研究による)。その石高は明らかではないが、三成の所領が美濃しかも大垣周辺にあった以上、関ヶ原合戦における戦略や布陣にも何らかの影響を及ぼしている可能性があろう。
 当初秀吉は近江は秀次、大和は秀長を頂点としてそれぞれ在地の国人衆を束ねさせる支配形態の青写真を描いていたと思われる。しかし秀長の死去と秀次の尾張移封〜失脚により、計画の修正を余儀なくされてしまう。その結果、三成や増田長盛らのいわゆる中央官僚が代役を務める形となった。
 現時点では左近が石田家に赴いた時期は文禄元年四月までしか遡れないが、少々気になる一つの事件が伊賀の筒井家に起こっていたのでご紹介する。


伊賀筒井家の内紛

 筒井定次は天正十三年閏八月に大和から伊賀へ移されたことは先に述べたが、実は天正十七年の時点であわや国替えという大事件が起きている。これは浅野長政の調停でひとまず収まったが、この際に元大和国人衆たちが移動したのではないかと見られる記録が『多聞院日記』に見られる。

「一 於伊賀従筒井今度一万石フニタシ従上様被下内、二千五百石布施へ、千石井戸十郎へ被遣了云々、」(天正十七年十月廿五日条)

「伊賀内輪申事淺野彈正意見ニテ調了云々、」(同十一月廿七日条)
「一 伊賀國替在之由ト昨日沙汰、如何、一説ニ春迄延引云々、」(同十一月廿九日条)
「一 伊賀國替一定云々、寒雪旁各上下迷惑、沈思〃〃、」(同十二月四日条)
「従筒井大方殿為家中霍執祈祷、來十七日ヨリ三ヶ日於社頭、(後略)(同十二月六日条)
「一 伊賀國大納言殿へ被遣了、筒井ノ落所不知云々、沈思〃〃、」(同十二月廿八日条)
「従筒井後室為四郎殿祈祷仁王經訓讀之事被申間、(後略)(天正十八年正月八日条)
「一 伊賀國替モ大旨不可在之歟云々、筒内衆方〃へ奉公ニ出テ、彈正ヨリ申遣、則悉相遣テ歸了云々、」(同正月十九日条)
「一 伊賀ヨリ筒井衆伊勢關ノ地藏泊ニテ出陳了ト云々、」(同二月二十七日条)

 順を追って説明すると、天正十七年十月廿五日条では、「この度定次が秀吉から一万石の加増を受けたが、そのうち二千五百石分は布施へ、千石分は井戸十郎へ与えられた」と見えるが、これは秀吉が定次配下の布施・井戸といった元大和国人衆の知行割りまで指図していたわけで、当時の筒井家臣の複雑な事情がおわかり頂けると思う。これは左近にも同じ事が言えよう。
 問題は同年十一月二十七日の「伊賀内輪申事淺野彈正意見ニテ調了」である。これは「筒井家に家臣の内訌があり、浅野弾正(長政)の介入により事は収まった」と解釈できる。つまり、『和州諸将軍傳』にある左近と桃谷・河村らの確執、『伊乱記』に見える左近と中坊飛騨の水論、これらの真実はどうであれ、やはり筒井家内部には家臣の間に不協和音が生じていたのは間違いない。
 それが二日後の二十九日には「伊賀國替在之由ト昨日沙汰、如何、一説ニ春迄延引云々」すなわち「昨日、伊賀の定次は国替えされるとの沙汰があったが、どうだろうか。春まで延期されるとも言うが」と英俊は記しており、十二月四日になると「どうやら国替えは免れないらしい。寒雪の中、身分の上下を問わず迷惑なことだろうに。どうしたものであろうか」となる。そして六日には順慶の母大方殿が、家中の確執が無くなるよう十七日より三日間祈祷を行うとあり、これは実際行われている。
 次いで年末の二十八日、伊賀は大納言秀長に与えられたとある。むろんこれは国の一部の話で定次が国替えされたわけではないのだが、伊賀が秀長に与えられたという風聞に接した英俊は、「筒井ノ落所不知云々、沈思〃〃」と定次が落魄したと思い込み、その身を案じている。また年が明けた正月八日には筒井後室が、今度は四郎(定次)本人のために祈祷をしているのである。
 祈祷が功を奏したのか、定次は国替えされずに済んだ。しかし正月十九日条に「筒内衆方〃へ奉公ニ出テ、彈正ヨリ申遣、則悉相遣テ歸了」と見えるように、筒井の家臣達は浅野弾正の裁断で他家の大名に奉公させたとある。これにより内紛は収まり国替えされずに済んだ訳だが、同時に家臣のうち何人かは他家へ移ったのである。

 つまり、左近が伊賀の筒井家を去った時期は現状では確定できないが、遅くともこの事件を契機として筒井家と完全に縁が切れたものと見て良いであろう。これは松倉氏についても同様と見られ、この事件を契機に筒井定次の家臣団編成が、浅野弾正の調停すなわち秀吉の意志によって大幅に変更されたものと思われる。


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