佐和山城と百間橋

左近は石田三成のもとへやってきました。左近の佐和山における事績はよくわかっていませんが、ここでは左近が松原内湖に架けたと伝えられる百間橋について少しご紹介します。


佐和山城の向きと三成の思惑

佐和山城址の碑  写真は佐和山城本丸跡に立つ碑である。五層の天守があったと伝えられる三成時代の佐和山城は、織豊期城郭として高石垣等で固められた明確な城域設定が指摘されており、龍潭寺南側から二の丸北裾部分を通り内町(古西法寺村・鳥居本方面)に至る東西のルートが、城域の北限に設定されたと考えられる。すなわち、琵琶湖=松原=百間橋=大海道=カモウ坂=内町=中山道というルートである。加えて南東の埋堀が三成時代の搦手(からめて)という伝承もあることから、幅三間の長大な橋と土堤(大海道)は、その東端が島左近屋敷に直結していることからも、同城の大手道として整備された可能性を考えたい。
 秀吉在世中は政治の中心が大坂であり、佐和山城は湖上水運を重視した西(琵琶湖側)向きの城郭として整備された可能性が高い。そして文禄三(1594)年の秀次失脚後に近江の要衝佐和山城は秀吉政権下の拠点的城郭として位置づけられ、その構想のもとに城下町も当然石田三成の手によって整備されていったものと思われる。惣構えはこうした城下町を含めての概念だった可能性も十分考えられ、ここに近世彦根につながる都市が湖東の地に出現したのである。
 三成は文禄五年三月一日に領内の村に十三ヶ条の掟書を下しており、その内容を踏まえた佐和山城の普請に関する記録が存在することから(『新修彦根市史』所収)、三成の手による修築開始時期は文禄五年三月以降とみられる。ただし、この時点では佐和山城は依然西向きに整備されていたものと考えたい。

 しかし秀吉の没後、湖岸側に大手と城下を整備するという秀吉の構想は変更を余儀なくされた。慶長四年閏三月に前田利家が没したことから、三成と福島正則らいわゆる武断派武将との関係が一気に悪化、三成は正則らの襲撃を受ける。窮した三成は徳川家康のもとに飛び込んでとりあえずは難を逃れるが、結局は奉行職を解かれ佐和山に退去することになった。
 退去した三成には、いずれ起こるであろう家康との衝突に備えるべく城を整備する必要があった。そこで急遽東側にも防御施設を構築したものと思われる。つまりこの時点をもって佐和山城の「向き」が変わったのではないかと推測したい。


嶋の左近に百間の橋

ご存じの方も多いと思われるが、左近が石田三成配下の優秀な人材であることを表現した「三成に過ぎたるものが二つあり 嶋の左近に佐和山の城」という有名な歌がある。しかし、これが後には

「三成に過ぎたるものが二つあり 嶋の左近に百間の橋」

と、少し文言が変わる。井伊氏によって破却された佐和山城に代わり彦根の人々から左近と並び称された「百間の橋」とは、誰がいつ何の目的で建造したものだったのであろうか。

『彦根古図』に見られる百間橋  通称「百間橋」は、当時佐和山城の西に広がっていた松原内湖にクランク状に架けられた通路のうち、松原側(琵琶湖側)に設けられた木橋のことで、古絵図などの記録から幅三間(約5.4m)、総延長三百間(約540m)に及ぶものと伝えられる。
 左の古絵図は『彦根古図』(滋賀大学経済学部附属史料館蔵)に見られる百間橋で、その脇には註として「嶋左近承リニテ此■ヲカクル 此橋長サ三百間横三間ト云」との記述が見られる。絵図上が北方向で、右上に見える少し大きな山が「古城」すなわち佐和山城であり、橋の東側のたもとには左近の屋敷(現清涼寺)があった。
 彦根の古絵図は他にもいくつかあり、財団法人豊会館所蔵の『彦根太古之図』には百間橋に関し、「此橋長サ三百間横三間ト云 嶋左近友之承リ是ヲ架ケル」とある。なお絵図クリックで豊会館に現存する百間橋の標柱画像にリンクしてあるのでご参考までに。

 現存するいくつかの古絵図に残された記述を総合すると、この橋は石田三成の佐和山統治期の間、それも秀吉在世中の比較的早い時期に左近に命じて作らせたものと見て良さそうである。


松原内湖と佐和山城

 さて、石田三成はその佐和山統治期に松原内湖の西側を三ヶ所切り、運河とするとともに松原と東の蒲生坂に向けて、内湖に土堤(大道・大海道)と百間橋を架けた。しかしこれは三成の意志というよりも、秀吉の意向によって整備された可能性が高いことは先に述べた。つまり、秀吉の意向として琵琶湖岸側に佐和山城大手と城下を整備する計画が進められたと考えられ、その開始時期は三成が佐和山を領した文禄四(1595)年から、秀吉が没した慶長三(1598)年までの間と一応推定される。
 古絵図など種々の資料から考えるに、この道筋は佐和山の北を往還するルートにつながることから三成時代に開削された可能性が大きく、架橋を含めた作事奉行は島左近が中心だったと思われる。竜潭寺の北東には「元豊国宮跡」「字豊国山」の記述もみえ、一説に同ルート北東にある八幡宮はかつて三成が帰依していたと伝えられることから、このルートと三成との関係を伺わせる。

 さて、現清涼寺にかつて島左近邸があったとされることについて、この城域北側の往還ルートを擁する位置に関係があろう。一説に佐和山城内北東の三の丸に左近がいたとされることについても、このルートと何らかの関係があるかもしれない。ただ、慶長四年閏三月の三成佐和山退去後、徳川家康への備えとして関ヶ原合戦直前に佐和山城の整備が急遽進められた可能性があり、従来の古城施設を取り込んだことも十分考えられる。
 これについては城域南東の城ヶ鼻に石田家の櫓の存在が伝えられ、これらが急造施設ではないかと考えられる。

 左近は筒井順慶の大和郡山城や定次の伊賀上野城といった、いわゆる織豊系城郭の築城に関わった可能性がある。その場合、前者では明智光秀の、後者では豊臣氏の築城ノウハウを間近に見ているはずで、三成の佐和山入部にあたっては左近が佐和山城築城に携わった可能性も当然考えられよう。城はもとより松原から鳥居本方面へのルート整備を含めた、佐和山城下の一連の整備に主として関わった結果が、絵図や伝承として「百間橋」と左近を結びつけているのではないかと思われる。
 とかく先鋒大将・軍事司令官的なイメージの強い感のある島左近だが、事実大和において検地奉行も務めており、三成の下にあってはその治政をも助けた「頼れる家老」であったことは、まず間違いなさそうである。

 関ヶ原合戦後、井伊家が彦根に入部し佐和山城が木っ端微塵に破壊されたことは周知の事実である。その際に経済性のある百間橋は残されたものの彦根城下の整備で街道筋が佐和山の南を通ることとなり、北側のルートは次第に寂れていったと見て良いであろう。

 そして百間橋は昭和の時代まで見事に残った。


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