新吉信勝の戦死

三成勢は奮闘しますが小早川らの裏切りで大谷隊は全滅、吉継は自刃します。そして左近の嫡子新吉も藤堂玄蕃を討ち取る殊勲の功を挙げますが、直後に玄蕃の郎党に討たれてしまいます。


三成勢の奮戦

 戦いがたけなわとなった頃、三成は笹尾山を降りて前線の島・蒲生陣へと現れた。ここで戦況を分析した三成は高野越中・大山伯耆に二千の軍勢を預け、東軍勢の側面を攻撃させようと試みる。しかし家康もじっとしているはずはなく、この様子を遙かに望見した家康は本多忠勝のもとへ使者を派遣し、寄合衆の織田有楽・古田重勝・船越景直・佐久間安政に命じて直ちに高野・大山隊を攻撃させた。彼らは一斉に進軍して高野・大山隊を押し戻し、勢いに乗って三成の設けた二重柵の前へと殺到していった。
 負傷した島左近や蒲生備中はこの状況を見て、もはや大砲によって攻撃するしか方法はないと進言、三成もこれを受け入れて本営から大砲五門を柵内まで運ばせた。そしてこれを東軍勢に発砲、敵がひるんでいる隙に蒲生備中・舞兵庫・北川十左衛門らが兵を率いて突撃を敢行した。そして三成は、頃は今ぞと狼煙を上げさせ、南宮山と松尾山の両部隊の参戦を促したのである。同時に三成自身も麾下の兵を率いて討って出、この猛烈な勢いに東軍勢は約300mほども敗走したという。記録にこうある。

 「田中兵部少輔吉政其子民部少輔長顕モ白旗ヲ揮テ士卒ヲイサメ敵軍ヘ突入ケルガ敵猛勢ニシテモミ立ラレ三町バカリ頽ルヽ」(『武徳安民記』)
 「関原之戦為賊将島左近、蒲生備中所敗。兵皆病罷。一正振臂大呼曰。是決勝之機。死而後巳。何以病廃耶。於是創者皆起。病者復立。殊死戦」(『垂統大記』)

 三成勢はこうして奮闘し、あわや家康麾下勢へ突入かというまでの勢いを見せる。歴史に「if」は禁物だが、この時松尾山の小早川勢はさておき、南宮山の毛利勢が動いていれば、結果はともかく戦況は一変していたに違いない。戦の駆け引きにも優れている上に老獪な家康のこと、一敗地にまみれることはないにせよ、かなり苦戦を強いられたのではないかと思われる。関ヶ原にて三成が敗れたのは戦術が下手だったからではなく、人心を掌握できず西軍を一つにまとめられなかったことが全てであろう。一言で「格の違い」と言ってしまえば三成には酷かもしれないが、少なくとも政治工作を含めた戦略面では家康に遠く及ばなかったのは事実である。

 さて西軍勢の思わぬ奮闘でいても立ってもいられなくなった家康は、意を決して再度陣を九町(約980m)程進めた。ここは後に陣場野と呼ばれるようになった所で、小池村の島津陣からはわずか500m程、三成の笹尾山本陣からも約600m程しか隔たっていない。まさに家康の闘志がむき出しとなった瞬間であった。


小早川の寝返り

 時刻はようやく正午になろうかとしていた。戦況はもはや一進一退と言うよりも、東西両軍の軍旗がそこかしこに乱れて入り交じり、誰がどこで戦っているのかさえ見分け難いような乱戦となっていた。松尾山の小早川秀秋の陣には監視役として家康から送り込まれた奥平貞治がおり、彼は戦況を判断して急ぎ大谷陣を襲うよう秀秋に迫った。これとは別に黒田長政の家臣大久保猪之助もかねてより秀秋陣にいたが、この時秀秋の家老平岡頼勝に近づいて草摺をつかみ、「戦い既に始まり、勝負も未だにどっちに転ぶとも判らないのに裏切りの下知がないのはどうしたことか。もし我が主君長政を欺かれるにおいては、弓矢八幡に誓って差し違え申さん」と、脇差しに手を掛けて詰め寄ったという。

 平岡はこれに動じることなく「先手を進める潮合は我等に任されよ」と山上から戦いを見つめたまま答えたが、その時煮え切らない秀秋の態度にしびれを切らせた家康が、小早川勢に向けて威嚇射撃を行わせた。これを見て意を決した平岡は軍使を呼びつけ、急ぎ先手の将に裏切りするよう申し聞かせよと命じた。小早川勢はここに至ってようやく東軍加担を鮮明にしたが、松野重元はこの命令に憤慨し、「この時に及んで裏切りするとは武門の大恥である。小早川の家にこんな行為はあってはならない。私は東軍と戦って死ぬ」と言って従おうとはしなかった。これを聞いた秀秋は怒り、村上右兵衛を遣わせ再度松野を諭させた。主君の命とあっては致し方なく彼はこれに従うが、兵を山麓に降ろしはしたものの戦闘を放棄して遂に動かなかった。松尾山にはこんな一幕もあったのである。
 松野を除く小早川勢は法螺を吹き鳴らし、平岡と同じく家老の稲葉正成を先鋒に一斉に山を駆け降り、六百挺の鉄炮をもって左近の嫡子新吉のいる大谷吉継陣に攻め掛かっていった。
 吉継は奮戦するが、そこへ脇坂・朽木・小川・赤座の四隊まで寝返って攻め掛かられてはたまらない。盟友平塚為広の死をも報された吉継は、もはやこれまでと自刃した。その際、吉継は松尾山の方角に向かって次のように言い残したという。

 「悔ユ、無道ノ人ト事ヲ與ニシタルコトヲ。三年ヲ出デズシテ吾此恨ヲ報ゼン」

 吉継、享年四十二歳であった。


新吉信勝の戦死

奮戦する新吉信勝  新吉信勝は左近の嫡子とされているが『合戦誌記』では二男とされており、名乗りも新吉郎・竜吉郎・義勝など諸書様々である。年齢も十八歳(『諸家興廃録』)、十九歳(『異本関原軍記大全』)、二十歳(『合戦誌記』)などと一致せず、現状では特定するのは難しいが、関ヶ原合戦時には大谷勢に属していた旨が諸書に記されている。
 左の画像は「関ヶ原合戦図屏風」(関ヶ原町歴史民俗資料館蔵)に描かれた新吉の姿で、図に見えるように彼はこの戦いで藤堂高虎の将玄蕃良政を討ち取るのだが、直後に玄蕃の郎党に討たれ短い生涯を終えている。その模様が『家忠日記』に簡潔に記されているのでご紹介する。

「藤堂高虎京極侍従西に向て兵を発し大谷か軍勢と戦ふ。高虎か隊長藤堂玄蕃允先鋒に進て奮戦ふ所に、島左近か嫡子新吉と名乗て玄蕃と組て遂に新吉玄蕃の首を得たり。玄蕃か従卒馳来て又新吉を討取る」(句読点は後補)

 『関原記大全』によると、新吉の当日の出で立ちは鍬形を打った星兜に緋威(ひおどし)の鎧を付け、芦毛の馬に乗り味方を下知しつつ戦場を駆け回っていたという。そこへ藤堂勢が攻め掛け、藤堂玄蕃と激闘の末にその首を獲た。玄蕃なる人物は舞兵庫らとともに豊臣秀次のもとで黄母衣衆を務めた剛の者である。これを仕留めた新吉も父左近の名を辱めない若武者であった。しかしさすがに戦い疲れていたのであろう、駆けつけてきた玄蕃の郎党(名は諸書様々)に討たれてしまったのである。画像左上に見える三成の軍旗が、敗勢覆うべくもない西軍の様子を表しているように見える。


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